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第三十六話 短かった高校生活

冬休みに入って早々の事、学校から大きな封筒で書類が届いた。開けてみると一枚の紙が入っていた。紙のいちばんうえには退学願いと書かれていた。学校側が記入する欄は全て記入済みで、私が署名、捺印をすればいいという状態になっていた。

祖母は泣いていた。私が停学になった時にも、とても悲しそうな顔で、「私が全部悪い。私の育て方が間違っていた」と言った。その言葉を聞いた時、私のやっていることを止めさせたいが言えなかったのだろうな、と思った。

私は高校生活でまともに授業を受けた記憶がない。授業中は寝ているか、漫画を読んでいるか、外に遊びに行ってしまうかだったからだ。停学中にテストがあたっがそれは受けられず、追試の成績も散々で、停学明けのテストも同じような感じだった。遊ぶことに夢中になりすぎて、先のことを全く考えられなくなっていたのだろう。夏休みが明け秋になり、またテストがあった。私は面倒になってカンニングペーパーを作りカンニングで乗り切ろうとしたが、あえなく見つかってテストを受けさせてもらえなくなった。この時点で単位・出席が足りないことは確定しており、留年することは確実だった。

その間に私がやっていたことと言えば、学校内で暴れまわったり、堂々とタバコやシンナーをやるような有様だった。その時点で学校側は対応を決めていたのか、呆れてしまっていたのかは今になってもわからないが、少しの注意を受ける程度で、停学等の処分は一切なかった。私は軽い気持ちで『留年くらいいいや』と考えていて、彼女にも「間違いなく留年するから」と伝えてあった。彼女は「留年なら仕方ないけど、学校辞めるのはやめてね」と言っていた。どうせ留年するならと、私は学校にもほとんど顔を出さなくなり毎日遊びまわり、次第に彼女と会う時間も減っていった。

それから数か月たって冬休みに入った。学校からの封筒が届いたときには、私にはどういう事かすでに分かっていた。泣く祖母を横目に私は迷いなく自分の名前を書く欄にサインした。私の高校生活はそれで終わった。その時点では何の後悔もなく『これから自由になる』という喜びで満ち溢れていた。退学することを嫌がっていた彼女とは、退学の報告をしたときに別れた。泣いていたが、もうどうしようもない事であった。

この退学を機に、交友関係も変わっていき、やることもどんどんとエスカレートしていく事になる。今でもよく思う事は、『あの時しっかり学校に通っていたら、今の自分はどうであったか』という事だ。

今回は学校を退学するエピソードでした。先の事を全く考えていなかったツケが今になって表れているなと、書きながら改めて感じました。次回は今まであまり登場していなかった父についてサラッと書いてみたいと思います。

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次回に続く

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