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コロナ時代に何を思うか

幸せとは

【「幸せ」という言葉について考えさせられた。

あなたが幸せを感じる時はいつですか?

例えば、ラーメン食べる時

幸せはその時の感情である。

継続していくわけではない。

瞬間に幸せを感じる

もっというと直前までの事象に左右される。

ラーメン大好きで、ラーメン食べると幸せだという人。

1時間前に寿司食べて、30分前に焼肉食べたあとラーメン食べて幸せだろうか?

幸せな人生を送りたければずっとラーメン食っていればいい。でもそれだと幸せを感じられない。

ラーメン食べるの幸せ!!という人が今この瞬間大地震が起きて3日間飲まず食わずになれば。普段は幸せを感じない、たった一杯の水を飲むことに幸せを感じる。

どこから仕事か

仕事はどこから仕事なのか。

高校球児は仕事か?

仕事ではないと答えるだろう。

仕事ではないとするならなぜか?

顧問の先生やコーチはお金を貰っているから仕事なのか?
もらっていない人もいるがその場合は仕事ではないのか?

日ハム対巨人戦は仕事か?

プロだから皆仕事だと答えるだろう。

選手はお金を貰いスタッフもお金をもらっているから仕事なのか。

休日の会社の飲み会を仕事だという人がいる。

会社から飲み代が出ていたとしても。まぁお金を貰っているのと同義であるので仕事というのはわかる。しかし、最悪だが自費で参加している場合でも仕事という。

仕事とは対価が発生するものであると考えるなら支払っているので休日の飲み会は仕事だというのおかしなことになる。

ちなみに僕は会社の人と休日に飲み会があっても仕事だとは思わないのである。

なぜだろう?

「パソコンを机の上に出してみんなでミーティング」と「休日に家族と楽しむDIYやガーデニング」

どちらが仕事でどちらが仕事じゃない(遊び)であろうか。

もちろんミーティングが仕事と答えるだろう。

では江戸時代から来た侍にどっちが仕事で仕事じゃないかを説明できるだろうか。

彼らはガーデニング(農作業)は仕事だと答えるだろう。

なぜお金ももらえない、米や野菜と何かを交換するためでない農作業をするのか理解できないのではないか。

どうやらお金を貰うか貰わないかが仕事か仕事じゃないかを決めるのでは無さそうだ。

結局のところ仕事か仕事じゃないかに明確な定義もルールなんてのもないんだ。

仕事か仕事じゃないかを決めるのはその時の状況と、個々人のさじかげんなんだ。

ちなみに僕はスーパーに行くと商品の配置が気なるし、どんな什器を使っているのも気なる、休みの日に真剣に売り場のことを考えたりもするし、自分の店で全然関係ないことを考えたりもする。ドン・キホーテで働くことを一応仕事と捉えてはいるがあんまり仕事だと思っていないというか。。プライベートと仕事を切り分けて考えようと思ったこともないし、出来ない気がする】

という所までの【】内が2019年9月14日に書いてそのままにしていたブログの下書きである。

なんとも真面目で面白みのない文章である。笑

今思っていること

ゴキブリへの耐性をつけるためYouTubeで毎日ゴキブリの動画見ています。笑

どーも環境適応能力が自慢の現代の文豪hirokiです。

なぜ今この下書きを引っ張り出してきたというと偶然下書きを見てハッと思ったから。

幸せも仕事に関しても結局、自分がどう捉えるかというのはこの時から色々お話を聞いたり、本を読んだりして考えていた話なんだけれど。

今コロナで当たり前だった日常が当たり前ではなくなった。

何度も何度も人間は大切なものを失って大切さに気付く。

そしてその時必ず誓うのだ。日々の当たり前を大切にしようと。

東日本大震災の時も、北海道胆振東部地震で自分が被災した時も日々を大切にしようと誓い、大切に思ってきたはずだった。

そりゃ前よりは大切に思えている自信はある。

でも、

またやってしまった。

今在宅勤務になり毎日家で仕事をする日々。

なんか自分に意味を感じられないのである。

なんでだろ?

は~~と思いながら仕事をしていて気が付いた。

誰とも目を見て挨拶をしていない、誰とも喋っていない日は不思議と能率が悪いことに。

翌日朝テレビ会議があり、みんなと話してから仕事をすると不思議と頭も働いて効率よく働けた。

やっていることは昨日の仕事の続きなのに、全然違う仕事に取り組んでいるかのようにはかどった。自分の仕事に意味が生まれた。

毎朝誰かと挨拶する。仕事中に雑談をする。真面目な話をする。

自分にとって本当に大切だったのだと気づいた。

運動不足になるのと在宅で不規則な生活になってはいけないと散歩を始めた。

そうすると雨の日は残念で、晴れの日は嬉しくなった。

晴れているだけで嬉しい気持ちになる、外出自粛を迫られるとちょっとの散歩も幸せに感じた。

また、日々当たり前にあることへの感謝ができていなかったし気づけていなかった。

でも気づけたから偉いと思っている。笑

ハッとした理由

たまたま過去に書き溜めていた下書きを見て、「何が幸せか、どこからが仕事で仕事じゃない(遊びなのか)のかと日常への感謝」というのは「条件(縛り)と自分のさじ加減」で決まるんじゃないかとハッとした

幸せという瞬間は直前までの状態がどうかという条件。

日常に感謝出来るのはそれが制限されるという条件。

仕事と遊びの境目を決めるのは自分のさじ加減。

晴れの日に散歩すること、人と話すことを幸せと感じるか感じようとしないのかも自分のさじ加減。

晴れたから何なの?人と挨拶したから何なの?と思う人は同じ事象が起こっても幸せとは感じられない。世の中に対して、起こった事象に対してどうとらえられるかで世界は違って見えてくる。

様々なことに対して

うれしい!楽しい!大好き!

と感じられるかなんだ。


そんなことはもう31年も前の1989年にドリカムが教えてくれていたはずなのに。


今、このコロナ騒ぎで回りが見えなくなりがちで、悲しいこともイライラすることもあるけど、日常の幸せを考え直したり、気づけたりと良いこともある。

『下向いたら気持ちも当然 下がっていくからまずは脳天 を天にしっかりとむける。すると正面が見える。そこがスタート。目線を変えてさぁのぼるぜ!』歌KREVA 曲NaNaNa

KREさんの言葉に勇気づけられながらコロナに打ち勝つ。

アフターコロナの世界が素晴らしいことを夢見て色々頑張っていきたいと思います。

夢や想いは叶うでしょ?

DREAMS COME TRUEでしょ。

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