見出し画像

【創作】夜蝶

 まだ幼い微熱に駆り立てられて、二人は自転車を必死に漕いでいた。自転車の籠には、彼が実家にある納屋から引っ張り出して来た径の太い麻縄と、隣でペダルを熱心に漕いでいる彼女から、一週間程前に借りた文庫本が入っている。
 新月の夜である為、空は一段と黒く、彼らは時々点滅する自転車のライトと、気の狂った蛾がその周りを八の字を描いて飛び回る、白い光を放つ点々とある街灯を頼りに、暗闇の中を突き進んでいた。
 彼らは、数分に一度程すれ違う車の灯りに用心していた。パトカーの不吉な赤い光が点る事に怯えているのだ。時刻は当に深夜零時を回っている。もし、警察官に見つかってしまえば、彼らの入念な計画は台無しになってしまう。そうなる事は何としてでも避けなければならなかった。
 それと同時に彼らは、この世界から逃げ出そうとしている様な感覚に背徳感と使命感を覚えて、心を踊らせていた。彼と彼女はまた二人だけの秘密が出来た事に幸福を感じていた。
 彼らが近所の古びてペンキの剥げたブランコしか無い公園で落ち合い、そこを出発してから四半刻と少しが過ぎた頃だっただろうか。
 二人は地元民や観光客から清流と呼ばれて名高い、或る河川の中流部に架かる橋の歩道に立っていた。彼らは橋の欄干に寄り添う様に、自分達の乗ってきた自転車を停めた。橋には五、六本橙色の光を放つ街灯があり、その光は彼ら二人を祝福するのか、それとも心の底では、二人の今後の旅路の、彼らの齢で辿り着くには余りにも早過ぎる目的地の事を思って憂いているかの様に、川面に揺れていた。
「やっと着いたね。僕はちょっと疲れたよ。」
「あら、私は全然。だって貴方と一緒だったんだもの。」
 彼は照れ笑いを浮かべた。少し遅れて、彼女も気恥ずかしくなったのか、頬を遅咲きの桜色に染め上げて、彼を見つめて、にへらと笑った。
 どちらとも無く二人は近付くと、優しく接吻した。それ以上の行為を知らない、あどけなさの残る二人には、この唇が少し触れ合うだけの柔らかい感触が、お互いの気持ちを伝え合う最大限の行為であった。
「これで最後なの?」
 彼女は青い宝石の瞳に、涙を滲ませながら、彼に問いかけた。
「そんな事は無いさ。向こうでも僕達は永遠に一緒だよ。」
 毅然として、彼はそう答えると、自転車に積んであった麻縄を取り出して、自分と彼女に巻き付けて、二人を繋いだ。
「これで離れる事は無いだろ?」
 そう諭しても、彼女は不安そうな顔をしていた。
「そうだ、ほらこれ。この間借りた本。とても面白かったよ。今日家を抜け出す前に思い出して、返さなきゃって。」
「今更良いわよ。どうせ何もかも置き去りにするんだから。」
 彼の差し出した文庫本を受け取り、小さく膨らんだ胸に抱きながら、彼女はふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
 沈黙が続いた。
 彼は意を決して、欄干に股がって外側に向かって腰掛けた。
「ほら、おいで。」
 彼女はその声に答える様に、彼と同じく欄干の上に腰掛けた。体をくっつけ合って座る二人の様子は孵る前の蛹の様であった。二人の真下には、前日の雨で水量の増えている川が、轟々と音を立てて途切れる事なく流れている。
「怖いわ。」
「大丈夫だよ、僕が付いてる。」
 二人はお互いの体温を感じながら、じっとしていた。
 瞬間彼女が欄干から歩道側へ身を翻した。
「やっぱり嫌よ、こんなの。私まだ死にたくない。」
 突然金切り声を上げた彼女に驚いた彼は、体の均衡を崩して、橋から落ちた。
 彼に繋がる麻縄に引っ張られて、彼女の肢体は硬い金属の欄干に強く打ち付けられた。鈍い音と共に、骨の折れた激痛が彼女を襲った。
「ゔぇ。」
 彼女の体を締め付ける麻縄には、宙吊りになっている彼の全体重が掛かっている。
 苦しむ彼女の姿が見えないまま、彼は腹に食い込む麻縄の痛みに藻掻いた。彼が藻掻けば藻掻く程、彼女は苦悶の表情を浮かべた。やがて彼女は口から血と吐瀉物を撒き散らしながら、事切れた。
 彼女の体から力の抜けた瞬間、欄干に引っかかっていた彼女が溶ける様に滑り、彼諸共濁流の中へ落下していった。
 苦しみから解放されたその僅かな時間、彼が目にしたものは、苦悶に歪み、憎しみの表情を湛えた彼女のおぞましい顔面であった。
 彼は恍惚とした表情を浮かべて、「君もそんな顔をするんだね。」と心の中で呟いた。
 空中で手足の広がった二人の姿は蝶の様であり、やがてどぼんという大きな音を立てて、水面に姿を消した。

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?