9/20 映画感想『猿楽町で会いましょう』:下北沢、怒りの凱旋。

サブカル男は許せないぜ!

下北沢はサブカルの街。当然ヴィレッジバンガードがある。ヴィレヴァンの中にはポップがあるが、僕はそのポップを見るたびに「サブカル男はこれを見て「俺ならもっとこう書くけどなーw」とか思ってるんだろうな……!ふざけやがって!」と勝手に思う。お前は何と戦ってるんだと言われるかもしれないけどまったくその通りで、そんなのこっちが聞きたいくらいだ。
でも俺は頭の中のサブカル男と戦わずにはいられないんだ……!!

ヴィレヴァン

そんなこと誰もやってないだろ、お前の妄想だろ。と思われるかもしれないけど、根拠はある。ぼく自身がたまにやっているからだ。

ヴィレヴァンに入ってポップを眺め「ふ……俺の勝ちだッ………!!」「このポップは俺には書けない……」「このポップなら……書ける!!」と大体3パターンで勝敗を(勝手に)決し、ヴィレヴァンの中をウロウロする。トータルで負けてたら潔く、店員のセンスに負けたということで何か買う。屈辱的だ……!ヴィレヴァン店員のサブカル男を許せない、二度とバイト帰りに隠れ家的なカフェに行くなよ!

で、下北沢である。下北なんてのは最初に言った通りサブカルの街だから、そこのヴィレヴァンで働いているのは相当ひねくれたサブカル野郎に違いなく、おそらく「サブカルが好き」とかなんてものではなく「ヴィレヴァンは今や“浅いサブカル”だが、あえてそこで働くアイロニカルな実践が……」とかスカしたことを思いながら働いているに違いないのだ。いい加減にしろ!なめたポップ書きやがって。

ところでヴィレヴァンのポップといえば、僕は昔勝手にポップを書いてきて貼って帰ったことがある。もう時効だから言って良いと思うが、適当な黄色い厚紙を買ってきてマジックペンでそれっぽく書いて、こっそり漫画の棚に貼ってきたのだ。次に行ったときには無くなっていたので、これが示すことはただ一つ、俺のポップが勝っていたということ……!!!

勝手に貼ったこと、反省はしている。

映画『猿楽町で会いましょう』

そんなサブカルタウンの映画館「下北沢トリウッド」で映画を観た。ここは新海誠の『ほしのこえ』が初めに公開された映画館として有名で、館内にはこんなのがあった。

ほしのこえ

トリウッド、20周年らしい。

ここで観た映画、『猿楽町で会いましょう』は何もない女の子・田中ユカとサブカル男たちの物語……に見える。実際後者は確かにそうなのだけど……この映画を最後まで観れば主人公の彼女が決して「何もない」なんてことはないことがわかってくるのだ。(以下、ネタバレします)

田中ユカ

ユカ

主人公。元は女優を目指して上京し演技のレッスンにも通うが、なりゆきから読者モデルの仕事をやるようになり、被写体として修司と出会う。「自分」が何者かわからない、何者とも言い切れない、いわゆるアイデンティティクライシスを抱えている。

3人のサブカル男

1人目。小山田修司。

金子

ユカが東京で2番目に好きになった男。好きになったっていうか……まぁいいや。言動の端々から小物感を漂わせている。作中なんどもユカにブチきれる。ブチきれたときに『STAR WARS エピソード3』のアナキン・スカイウォーカーみたいな表情になる。めっちゃ怖い。仕事はカメラマン。やっぱりカメラマンとかやってるやつはダメだな……。

アナキン

↑これがアナキン。怖い。


2人目。北村良平。

良平

ユカが東京で初めて好きになった男。初対面のユカに自動販売機で飲み物をおごり、自分もICカードでコーヒーだかを買いながら「こういうの(ICカード)って……便利だけどさぁ……なんか、小銭とか使わなくなるって、寂しいよね……触れるものが無くなってく感じがしてさ……」とかなんとか言い出す。うるせぇよ。何言ってんだお前。最後はブチぎれて同棲していたユカを追い出す。仕事はインテリアだか部屋のデザイナー。やっぱりデザイナーとかやってるやつはダメだな……。


3人目。山本優一。
ユカのことが好きな男。ユカに好かれようと媚びており、優しい感じがするが、最後なんやかんやあってブチぎれて襲い掛かってくる。ユカも明らかに優一を見下しているので良くない。ちょっと可哀想。服屋でバイトしながら、スタイリストを目指している。やっぱりスタイリストとか目指してるやつはダメだな……カタカナの仕事はダメなんだな……。


おまけ。嵩村秋彦。

嵩村

ユカに撮影モデルの仕事を紹介した男。ユカがバイトしていたメンズエステの客であり、オプションと引き換えに仕事を紹介、修司がカメラマンとしてユカとのファーストコンタクトを果たすきっかけとなった。

ユカはこの3+1人の男たちと関わっていくわけだけど、その過程で彼女はずっと「何者かになろうと」していく。そもそも彼女が地元から上京してきたのも何者かになりたかったからだし、3+1の男たちと関わってからは、彼らとの関わりを第三者に殊更にアピールしていく。修司がカメラマンとして賞を取り、そこそこ名が売れ出せば「私の彼が賞を取って……」と嬉しそうに話し、良平と上手くいっていた時は「私の彼は若いのにプロジェクト任されたりしてて……」と話し、嵩村と食事をすればバイト先の店長に「偉い人と食事に……」と話す。それらはすべて、彼女が男を通じて「何者かになれた」ような感覚を得られるからであって、3人目の優一が歯牙にもかけられず邪険にされる理由でもある。優一はあくまで「スタイリスト志望」であり、ユカと大している位置が変わらない。優一もまだ「何者でもない」。だからユカは決して優一に応えない。

ユカは良平や嵩村から聞いた知識、言った台詞なんかをそのまま真似して他の人に、まるで自分の言葉かのように話す。その描写からは確かに彼女の空虚さ、何もない空っぽさ、確かにユカが「何者か」を目指さなくてはいけない切実さがあるように見える。しかし、ユカは本当に「何もない」のだろうか。

確かにユカは「自分に色なんてあるのかな……」と言ったり「あなたはどんな人ですか?」という問いにはっきりと答えられなかったりする。嘘もつく。嘘、というよりもっとお粗末な、その場しのぎにもならないような適当なことを言う。芯がなく、何を考えているのかユカ自身にも周りにもわからない。

しかし、ユカが唯一、明確に反応するものがある。タバコと大きな声だ。修司、良平、嵩村。優一以外の3人、つまりユカと肉体関係を結んだ相手は必ずタバコを吸う。そしてユカはそれぞれ修司と良平にはやめて欲しいと頼み、嵩村には関係性上強くは言えないのか、無言で嫌そうな反応を見せる。そして大きな声。嵩村以外の3人がブチきれて怒鳴ってきたときは「大きな声出さないで!」と叫び返したりするのだ。

ユカは自分の好きなものに関してははっきりしない。縁を切ったはずの良平と再び関係を持ったり、目指して上京したはずの芸能の仕事すら中途半端、適当であると看破されてしまう。しかし、嫌いなものに関しては態度が一貫している。そのことはラスト、CMのオーディションで審査役の男に「嫌いなものは何ですか?」と尋ねられるシーンでよくわかる。ユカはそれまでの「あなたはどんな人?」「好きなものはなに?」というような質問に躓き、不器用に話していた様子から一転、スラスラと語りだすのだ。新潟の実家にいたころ、父がヘビースモーカーで、そのことで母とよく大声で喧嘩をしていたこと。それがとても嫌だったこと。その語りは流暢で迷いがない。ユカは「何もない女の子」ではない。「嫌いなもの」という、自分が堂々と語り得るような立派な武器がある。

『猿楽町で会いましょう』は、一見「何もない」ように見えるユカという女の子が実はずっと「嫌悪」という武器を持っていたことがわかっていく物語なんじゃないか。そう考えると、優一と対峙するシーン、今まで優しかった彼が豹変したときのユカはとても印象深く思い返される。

というのも、この時ユカは優一に「気持ち悪い」と嫌悪感を露わにしぶつけるのだ。そして他の男とぶつかり合うシーンでは「最後ユカが泣いて逃げる」という結果になるのに対し、この優一を相手取ったときのみ「優一が逃げる」という結果となっている。もちろん、相手が相手だったから強く出れたというのもあるだろうが、何よりこれはユカの「嫌悪」という武器、個性が存分に発揮されたということなんじゃないのか。

ユカと修司が同棲していたアパートの一室を修司が引き払い、窓の手摺に置かれたタバコの吸い殻と、部屋の真ん中にある(おそらくユカの)フィルム写真が映されて、この映画はエンドロールに入る。ユカと、ユカの嫌いなタバコがこの映画のラストを飾るのだ。きっと、あのCMオーディションは受かるだろう。ユカは自分を語り得る何かを見つけ、「何もない」存在ではなくなったのだから。もう変なサブカル男に頼る必要もないのだ。一見後味が悪いようで、希望に満ちたエンディングなのである。

嫌いなもので生きてゆくしかないぜ

嫌いなものを語る、というのは案外悪くないことなんだろう、と思う。「何者かになりたい」若者はすぐに自分の好きなものや、得意なもので何かを成し遂げようとするけど、別にそうじゃなくて良いのだ。たとえば、僕だって今noteで好きなものについて書こうと思ったらBerryz工房についてずっと書くと思う。しかしそれよりも、嫌いなサブカル男について書いた方が上手く書けるし、書いていて楽しいのだ。あー、サブカル男は嫌だなぁ。ラーメンとか食ってるしな。ラーメンは敵性料理だ!

下北沢も嫌だ……映画館にあった自動販売機のペットボトルが全部200mだったのが許せない……一個くらい普通のサイズがあっていいだろ。

自動販売機

なんなんだ一体。

そういえば今日、下北沢トリウッドにはサブカル男がいっぱいいたな……なんか皆しゃらくさい雰囲気を醸し出していたよ……僕が映画観に行くと大体そういう奴に出くわすんだよな。あれ、もしかして僕も……。

……サブカル男は許せないぜ!!!


ここまでに書いた、『猿楽町で会いましょう』についての読みが実際どうなのかはわからない。映画内の描写について書いた部分すら、もしかしたら間違っているかもしれない。今日一回見ただけだし。でも、少なくとも読みなんて別に作り手の意図と違っても全然良いわけで(「作り手は自分が何を作ったか気づいていない」ことも往々にしてあるしね)、あらゆる読みが開かれているのだ。まぁ少なくとも、1人の観客にここまで語らせるような映画というのは確かだし、是非観に行って欲しい。

長くなったので終わりにしますが、今日のnoteは元々「“何者かになりたい”人たちが恋愛をするということについて」というものでした。『猿楽町で会いましょう』の内容と合わせて書こうとしたんですが映画についての部分が長くなってしまったのと、昨日意識して情緒的な文章を書いたので恋愛とかそういうことについて書くのはやめました。またどっかで書きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?