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モラトリアムの終焉と人生の辛さ

モラトリアムの根っこの意味は「支払猶予期間」らしい。

そこから転じて現在は「大人になるための猶予期間」のことを指している。学生達がモラトリアムを楽しんでいるとかよくいうね。

大学卒業を間近に控え僕はうつ病になった。(この記事は別に重い話ではない。)原因は多分モラトリアムの終焉を感じ、それが意味することが人生の残酷さ・死の残酷さに向き合い受け入れることだとわかっていたからだと思う。改めて振り返って僕なりにモラトリアムについて人生についてまとめてみた。

この記事は自省も兼ねているのでモラトリアムに悩む人に攻撃的な部分がありますが、個人的にはそういった時期やその時期に考えたことは非常に有意義だと思います。

1.今現在の僕と死との間にある壁

 井上靖原作、原田眞人監督の映画「わが母の記」にうろ覚えだけどこんな一説がある。

父が死んでしまったことで、僕より年上の親族は母だけになり、自らと死との壁が薄くなっていることに気がついた。

ここでは親族のことを話しているけど、これを所属組織に置き換えて死の壁を考えてみる。誕生から、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、企業、老後。最後には死がやってくる。個人差はあれど概ねこんなものじゃないかな。大学を卒業しても人生は長い。おそらく4分の3くらい残しているだろう。でも、段階で考えたらもう壁は企業しかない。そこから先は崖、死だ。落ちて、もう歩くことはできない。

考え方の問題だという人もいるし、それを悲観するなんて馬鹿馬鹿しいという人だっているだろう。僕もそう思う。でも僕は実際そう思ってしまっていた。恐ろしいと。

2.確定する未来と可能性の減少

人生の段階は先ほどは直線で考えたけど、今度は平面的に考えてみる。つまりパラメータとして時間に加えて「可能性」を加える。人生の可能性は歳を取るほどに狭まっていく。例えばだけど、日本語を母国語をとした人間はもう英語を母国語にはできない。4歳ごろから英語を習い始めても初めて喋った言葉は日本語で思考も日本語になるだろう。私立中学に入れば公立には入れない。野球部に入ればサッカー部には入れないのだ。

人生を過ごして選択と決断を繰り返すたびに、何かしらの可能性を削ぎ落としていく。そぎ落とした先には現実という一つの要素しか残らない。大きな選択であるほど手放す可能性は大きくなる。大きな選択で多くの人に共通するもの、進路選択だ。つまりみんな先ほど示した死との壁を超えたときに多くの可能性を削ぎ落とす。

その中でも就労というものによって狭まる可能性は果てしない。中学や高校、大学は通過点である。選択の幅は狭まるがその先が約束されている。一方で就職はどうだろう? 決定した段階で40年間先の現実をきめる。この決断は重くどん詰まりだ。ここでおしまいなのだ。もうその先を夢想することはなくなる。

実際はそんなことはないかもしれない。今の時代、転職なんてよくある話だ。でも後に変化させることを前提に決断するということはない。大事なのは必ずしも変化しないということだ。教育機関は必ず終わりとその後への変化が生じる。就職には終わりはついてこない。自ずから終わる。

図式化して単純化するとそれは最後の選択で、非常に大きな意味を持つ。困ったことに図式化して単純化して物語化しないと人間は物事を考えられない。主人公が死んだら物語はほとんどバッドエンドだ。就活はバッドエンドが避けられない選択なのだ。

就職によって生まれる現在と死との急激な接近、そして人生における移動可能面積の極端な減少。この2つがモラトリアムからの脱出には必ずついて回る。場合によっては死への強い恐れから動けなくなってしまう。

3.死への恐れは人生の辛さ

そしてここで生まれる死への恐怖は残念なことに死そのものへの恐怖ではない。人間に与えられた人生そのものへの恐怖だ。

人生は長くても100年程度しかない。しかし人間の知性は現在だけではなく、過去と未来についても考えることが可能になっている。人類は宇宙の始まりらしきものを認識できるし、太陽が大体何億年後に地球を飲み込むかもわかる。時間を超越している。空間も超越している。国際電話も可能であれば、その前に電話相手のいる地域が現在何時なのか考えられるし、今、自分の家族が何をしているか予想することもできる。

だが人間の肉体は100年しかもたない。宇宙が大体138億歳であることはわかっても、その端数しか人間は、人類は生きることができない。この頭と体の時間のズレが苦しめる。永遠を想像する事はできても永遠を得ることはできない。

そして無が、知覚することのできない時間がやってくる。子供の頃、夜に果てしない死を思ったことのない人がいるのだろうか。父母の喪失を想像し泣いたことのない人がいるのだろうか(意外といそう)。

その恐れは人生を現在知覚するからこそやってくる。生まれてしまった以上死ななくてはならない。

その死から逃れるためには人生を放棄するしかない。自殺か引きこもるかだ。

最終的に自殺がある。それの手前に引きこもりがある。人生の放棄。引き込もりやそれに類するものとなり、ただ生を貪る。どれだけ生を努力しても、死を克服することができないことをしっているからだ。正しいか正しくないかは別としてそう思い込んでしまっているからだ。

話が脇道にそれすぎたのでここらへんはひとまずおいておく。このあたりの話は中村義道さんの本に面白いことがたくさん乗っている。

要はモラトリアムへの執着は死への恐れとイコールであり、死への恐れは人生への恐れと等しい。そのためモラトリアムへの執着は全人類一様に持つものであり、個人個人で程度の差が存在するだけなのだ。

4.そこから抜け出すために

方法はない。教えてほしい。まじで。

一つあるとするならば、生きるのに必死になることだ。生きるのに必死な人間はこんなことは考えない。先進国の中間層以上でなければ、こんなことを思わないだろう。生きるのに必死になれば、死への恐怖は忘れてしまう。

もしくは生きる以上に必死になれることを見つけることだ。

高畑勲監督の『思ひでぽろぽろ』の都はるみさんが歌う主題歌『愛は花、君はその種子』にこんな歌詞があった。死ぬのを恐れて、生きる、ことができない。

5.最後に

ここまで「である」調で書きましたが、偉そうで嫌なのでこれから先の記事は「ですます」調にします。この記事もそのうち直します。

冒頭で示した通りモラトリアムに悩む大学生を攻めるようなことがあったかもしれませんが、そのようなつもりはありません。そういった悩みが持てるというのは非常に貴重なことだしつらいかもしれないけど素晴らしいと思います。

この記事を書いてる最中に読み始めた小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(中公文庫)に専門家的なより詳しいことが書いてありました。古いですがおすすめです。

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