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駄文#7 創作の起点

こんにちは、抽斗の釘です。

大濱普美子の短編小説「ツメタガイの記憶」を読みました。


普段はあまり、というかまったくと言うほど現代小説を読まないのです。
というのも、私、あまり小説は雑食ですというわけではなくて。

ほとんどの小説は、1ページか2ページほど。それですぐ読めなくなってやめてしまうのです。
興味がなくなるというか、読み進める忍耐力というのがあまりないようで。
自分が引き付けられる場所設定だったり、台詞まわしだったり、そういう取っかかりが見当たらないと、挫折してしまうのですね。

一方傾向として、芥川龍之介や川端康成など、近現代の作品ならまずまず読むことができたり。
現代小説の勉強をしなければならないと思いながら、あまり褒められたものではないと自分でも思います。

なぜ近現代の限られた作家なら読むことができるのか。
折々、考えることもあります。
今のところ、
それはある程度の質が担保されてきたものだから
そして担保されるだけの力があるから
というのが、答えなのかなとも思っています。

やはり数十年残り残され続けてきた作品なわけですから、それだけに作品に「力」というものがあるのでしょう。
一方「力」がない作品は、おのずと時代の流れと共に埋没していってしまったのでしょう。

いま、私たちが生きる現代でも、日々様々な小説が生まれています。
出版された作品は言わずもがな。ネットのアマチュア作品も毎日数多く世に出されています。
その中で、どれだけのものが数十年残る作品なのでしょうか。
書店の帯には印象的な言葉が並びます。
「泣いた」
「どんでん返し」
「衝撃のラスト」
(いまどきこんな帯は無いと思いますが)

ツイッターの読書アカウントには、書店で見たことのあるタイトルと感想が並びます。
「読む手が止まらなかった」
「すごく良かった」
「考えさせられる」
「物語とそれを織りなす文章が美しい」
(これらは私の想像です)

まるですべての作品がそうでないといけないかのように。

つまるところ、現代で人気の作品とは。
巧妙なプロット。
得やすい感情の揺さぶり。
問題提起。
繊細な心理描写。
と、いえるのでしょうか。

さて。ならばそれらを網羅していない作品、というものは、存在を許されないのでしょうか。
もちろん、勝手に作って楽しむ分には許されるでしょう。
しかしレビューは殺伐とします。
「つまらない」
「よくわからない」
「オチがない」
映画や漫画のレビューでも散見します。
まるでその存在すら許されないかというように。
ともあれ、見る側の大切な時間を奪った結果になるのですから、それぐらいの文句があっても仕方ないとも思うのですが。
感想すら書かれないものだってあるものですし。

この駄文にだってそれは言えるのかと思います。
しかし文章にあたっては、幾分その、「つまらなさ」というものに対して寛容な気もしています。
しいてはそれが小説の特色とも言えるかもしれません。
つまり、映画や漫画は小説以上に「面白くなくてはならない」という決まりがあるのでしょう。
それらの制作には小説以上に経費もかかっているのでしょうし。

さて。人気作品を制作するならば、とうぜん作り手も人気が出る要素を作品へ組み込まなければいけません。
くわえて、制作にはそれなりの労力が必要です。
労力の捻出には、それだけの熱量が必要です。
いわば、創作の起点。原動力ともなる動機が必要なのです。

では作り手は何を燃料に創作を続けるのか。

誰も思いつきそうにない面白いプロットを思い付いてしまった。
どこにも発散できない感情を爆発させたい。
思考に思考を重ねてたどり着いた哲学を披露したい。
天から頭に降りて来た美しい情景を具現したい。
一言では解決の出来ない、自分の人生に関わる問題や境遇を知ってほしい。

他にもいろいろあるでしょう。
けれど、どれかひとつだけでは小説は生まれそうにありません。
これらの要素が数パーセントずつ混ざりあって、作者は創作を作り進め、また、それによって作品は深みを増していきます。

例えば、乱暴な言い方になりますが、
面白いプロットならドラマやコントの原作。
感情の爆発、美しい情景の具現なら詩や絵画。
ドキュメント番組、記事、漫談、哲学書、自己啓発ブログ……
というように、どれか一つに尖らせるなら、専門の分野で表現したほうが効果的な気がします。

ですから表現に小説を選ぶときは、上記のどれにも特化できないときになるのではないでしょうか。
そのため上記の要素が少しずつ混ざり合うような形になります。
むしろ、これらの要素をうまく混ぜ合わせるのが小説なのではとも思います。

面白いプロットを思い付いたが、筋が面白いだけでは物足りない。
文学的な表現にしたいから、自分の哲学を加えて、美しい描写も入れて、後は現実味を増したいから自分の生い立ちなども織り交ぜて……
と、いうように。

しかし何にせよ「小説」を書き始める作家の動機。その起点は、これらの要素や、もっと他のもの。ともかくどれかひとつに絞られるのではないでしょうか。

そこで話は冒頭に戻りますが、
大濱さんの作品は、私にその起点を思い起こさせてくれます。

と、いうのも、最近「面白いプロットであることに集中して話を書こう」
と、思い立って書きだしてみたものの。これがまあ進まない。

そこで以前から面白いなあと思っていた大濱さんの作品を読むと、
そうそうこういう感じ。こういう感じに書きたい。
と思えたのです。

こう言いますと、大濱さんの小説のプロットが面白くないと聞こえそうですが、
正直に申し上げると明確で分かりやすい話の流れの小説ではないのです。

けれど、文章の流れや物語の揺らぎ、というものが、ひどく私の性分とマッチして、心地よく読み進むことができるのです。
自然とリズムをとってしまう音楽があるように、この方の小説は私の心を動かしてくれるようです。

それは、大どんでん返しや、巧妙な伏線回収ではありません。
また、雷に打たれたような物事の真理の発見でもなければ、
不幸な境遇の人物が、それでも必死に生きているんだという衝撃でもありません。
カラフルな情景の瞬間でもなければ、若年ゆえの社会との葛藤でもありません。

それらが少しずつ混じりながら、それらを包括するもの悲しさとでも言うのでしょうか。ほの暗さと言うのでしょうか。
生きていれば、どこかの機に訪れる不可解さ。ぞくっとする瞬間。
それは人が成すものか。それとも別の何かか。
想像でしょうか。現実でしょうか。
それらが分からなくなる時。
生きながら、生きる上で垣間見える、魔界の対岸。
そしてそこから返される視線。
それと微笑み合うよろこび。

私が小説を書く原動力。その起点。
それはそんなよろこびから得るのだと、今はそんな風に思っております。

何を偉そうに、と、自分へ思う次第です。

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