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短編小説 | 閾

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夜な夜な山羊の声で遠吠えを繰り返す狂った犬がいるなら、まさしく赤子はその様だった。
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短編小説 | 閾(しきい) #4

短編小説 | 閾(しきい) #4

「黙る? 黙るか?」
赤子の声は止まった。するとその刹那に、算段も焦りも失われた。ただ裏返して現れるカードの絵柄のように、造作なく捲られたのは野生じみた反射反応だけであった。杏平はなおも淡々と赤子の体を締め続けた。こうすれば黙るという理屈すら無く、本能はただ腕の力に任すだけであった。そして、
「ぎい」
と、強い唸り声の後、赤子のほうも自身の本能に頬を打たれたように、今までにない強い叫びを上げた。

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短編小説 | 閾(しきい) #3

短編小説 | 閾(しきい) #3

 翌朝、起き抜けに杏平が自室から廊下に出ると、微かに開けられている襖に目が留まった。隙間からはぐずぐずとした赤子の不機嫌な声と、あの妻の甘い声が抜けてくる。杏平はそっと中を覗き込んだ。そこには敷布団の上にぺたりと座り、乳を与えているであろう妻の背だけが見えた。冬晴れだろうか、庭の障子を透かす光はまっすぐに座敷に届き、部屋の中は暖かく蒸され乳の甘い香りで満たされていた。まさか一睡もせず世話をしたわけ

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短編小説 | 閾(しきい) #2

短編小説 | 閾(しきい) #2

 その晩、赤子は泣き続け、夜半近くなっても眠らなかった。おむつを替えても機嫌は直らず、乳を差し出しても顔を背ける。服を捲くってみると腹が蛇腹提灯のように膨らんでいた。そこで綿棒を肛門に差し込み排便を促した。しかし屁や微かな便が出るだけで、赤子は尚も苦痛を訴えるように顔を歪め、目ぼしい効果は表れず安らがない。夫婦は座敷で眉をひそめ合った。
「浣腸、買っておけばよかったかな」
「でも浣腸は一日便がなか

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短編小説 | 閾(しきい) #1

短編小説 | 閾(しきい) #1

 障子は青白い色をしていた。
 おそらく外の雲影は日を隠し、南向きの小さな庭へ冬の影を落としているのだろう。障子はただその陰りを透かし、過ぎた陰は中の座敷にまで及んでいた。それは畳に胡坐をかく杏平(きょうへい)や目の前の座布団、その上でうたた寝する赤子にまで手を伸ばしている。目を細めた赤子は赤くなく黄色だった。黄色は陰の青と混ざって緑に近く見えた。杏平はその緑色を黙って見下ろしていた。赤子も寝言一

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