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表現作品へのポリティカル・コレクトネスによる縛り付けは表現の自由の侵害である

ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の説明はWikipediaを参照してもらいたい。略称を言えば「政治的妥当性」だろう。

さて、ポリティカル・コレクトネスは、本来「ゆるい推奨」という形で入ってきた。「視聴者・読者に受け入れられやすいように」という意図だ。
それが今ではアメリカ漫画や映画では、「必ず」LGBTを登場させる・白人キャラクターを黒人にするという無茶苦茶なことになっている。これには読者・視聴者が落胆させられている。
日本の創作作品ではポリティカル・コレクトネスには必ずしも従っていない。この背景には、日本人自体、単一民族で黄色人種がほとんどであることが関係していると思う。そして、LGBTへの配慮も必ずしもされていない。このポリティカル・コレクトネスに縛られない環境だからこそ、創作作品が違和感なく表現されている。日本の漫画がアメリカで売れているのは、そこも関係しているだろう。

話を戻すと、ポリティカル・コレクトネスはもとは「視聴者・読者に受け入れられやすいように」という「ゆるい推奨」だった。それがアメリカでは「必須条件」になっている。
ポリティカル・コレクトネスが必須条件になった時点で、これは「表現の自由の侵害」になっている。
創作物は、もっと自由であるべきである。ポリティカル・コレクトネスという縛り自体が表現の自由に対する挑戦と私は思っている。これには抗う必要があると私は思う。

すべてのメディアに対してポリティカル・コレクトネスを適用するなら、漫画・映画作品に限らず、ブログ・Wiki・Twitter・Facebook・Instagram・TikTok・5ちゃんねるもポリティカル・コレクトネスに縛られることになる。これらに対するポリティカル・コレクトネスによる縛りが発生することは私達の文化の発展を阻害することになる。そして、表現の自由の侵害である。

今一度、「表現の自由」を中心に、創作物を作り・楽しむことを考えるべきではないか。

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