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短歌はアスリートを詠めるのか

(一)はじめに 現代スポーツ短歌の前夜

 昨年、新型コロナウイルス感染症が人々の生活を苦しめる中で開催された東京オリンピックとパラリンピック。開催に賛否の意見が飛び交う夏の日々に、多くのスポーツファンは複雑な思いを抱きながら観戦した。それは一九六四年の東京オリンピックとはまったく異なる状況だった。戦後復興におけるオリンピック事業への注力に対して批判はあったものの、夏の大規模な水不足を乗り越えた一九六四年十月の東京は、「平和の祭典」への賛意が高まる中でオリンピック開幕を迎えた。

よろこびの空の羽音「種の別」のあらぬ祭に鳩群れて翔ぶ

宮柊二「ああ平和」
(朝日新聞 一九六四年十月十三日)

忘れゐし日本の空の美しさ萬国選手団の上にありたる

前川佐美雄「深く思へよ」
(朝日新聞 一九六四年十月十九日)

耳になお歓喜のこだま国超えて競いて彼らに戦争はなく

近藤芳美「こだま −代々木総合体育館−」

(朝日新聞 一九六四年十月十六日)

核武装よそに見て競う若き裸身 黒白黄のいろひかりあいつつ

五島美代子「黒・白・黄」
(朝日新聞 一九六四年十月二十三日)

 一九六四年の東京オリンピックでは、各新聞社はこぞって作家たちに特別記者などの名目で開閉会式や競技を取材させ、観戦記や随筆を寄稿させていたが、朝日新聞だけが四人の歌人に短歌を依頼している。前掲四首の作者の中で前川佐美雄を除く三人は当時、朝日歌壇の選者を務めていた。それぞれ三首ずつ寄稿しているが、宮柊二と佐美雄は国立競技場で行われた開会式を詠み、近藤芳美はタイトルから丹下健三設計の国立代々木競技場での何らかの競技を、五島美代子は「裸身」から水泳競技を詠んだものだと判断できる。いずれの作品も式典や競技そのものよりも、それらを通した平和を詠んでおり、敗戦後十九年の世界に対する感覚が読み取れる。近代のスポーツ詠では正岡子規の「ベースボールの歌」が知られているが、これら平和への願いを現代スポーツ短歌の前夜と位置づけることで、一九六四年以降の急速なスポーツ分野の発展をどう詠んだかを検討する区切りとしたい。

 一九六四年と二〇二一年。五十七年の時を経て、日本スポーツ界を取り巻く環境も変わった。アマチュアスポーツの祭典からプロによる世界一決定戦の場となったオリンピックに合わせるように、多くの競技はプロ化され、一流の技術や記録を持つ選手たちはお金を稼ぐためにスポーツを行うようになった。そして、日本人は彼ら一流選手のことを「アスリート」という外来語で呼ぶようになった。

 では、五十七年の時を経て、スポーツを詠む短歌はどのように変わったのか。短歌はアスリートの姿を描くことができているのか。本稿では、主に一九六四年以降のスポーツ短歌を振り返るとともに、スポーツと短歌というかけ離れた惑星のような両者を線で結び、短歌表現の新たな可能性を探る。


(二)二つの東京オリンピックと「観る短歌」

 前述の通り、一九六四年の東京オリンピックでは、当時の一流作家たちがこぞって新聞、雑誌にオリンピック関連の文章を発表した。三島由紀夫、武田泰淳、大江健三郎、平林たい子、北杜夫、山口瞳、松本清張、石原慎太郎、平岩弓枝ら枚挙にいとまがない。その背景には、当時はスポーツを専門に書くいわゆるスポーツライターはおらず、祭典を散文で描写するには作家の力に頼るしかなかったということがある。しかし、大抵は競技の魅力をうまく伝えられているとは言えず、選手たちのプレーの本質に迫るような描写は少なかった。スポーツの試合の本質を描くための技術と知識は、当時の作家たちには備わっていなかったのだ。曽野綾子は大会を振り返る文章で、同業者の失態に言及している。

 こんどのオリンピックでは、われわれ作家仲間の弱点が日本選手団以上にバクロされてユカイであった。

 百メートルの女子背泳の記事を書きに行って、「号声一発、ざんぶと揃ってとびこんだ」というメイ文をお書きになったのは、私の深く尊敬する作家のA氏である。

 A氏はそのときまでイタク緊張してその瞬間を待ちこがれられたあまり、イザというときに、急に空腹をおぼえられ、サンドイッチにかじりつこうとして目を落としたために、そういう情景描写とあいなった。それがそのまま活字にならなかったのを、ファンの一人としては深く惜しむところである。新聞記者が注意してなおさせてしまったのだ。

 また同じく作家のB氏からは「バレーボールの世界記録は、どこの国が保持するや」というご下問があった。作家は人間そのものには神経質だが、人間の決めたことはいっこうに気にならないという共通性をもっているだけだから、あまりに気にしなくていいのである。

   曽野綾子「東京五輪の〝大いなる遺産〟」

(「週刊サンケイ」一九六四年十一月九日号)

 もちろん水泳の背泳のスタートは水中からなので飛び込みではなく、バレーボールは世界記録ではなく決められた得点で勝敗を競うスポーツだ。それを知らなくても作家には取材依頼が来ていたということになる。実はここで暴露された「A氏」は、曽野の文章に先立って自らこの顛末について書いている。

 いよいよ、オリンピックが始った 。戦争中の報道班員のようにみんなが駆り出されていく。私のような男まで水泳競技場につれていかれたが、背泳を見たあと、「選手はスタート台に立った、うしろむきに飛びこんだ」とうっかり書いてしまったためクビになってしまった。しかし、そんな私だってテレビに毎日かじりついていたのだから、スポーツ好きの連中は仕事も何もできはしなかっただろう。

遠藤周作「祭のあと」
(朝日新聞 一九六四年十月二十四日)

 日本にスポーツライターが認知されるのは一九八〇年に文藝春秋が「スポーツグラフィック・ナンバー」を刊行してからで、その創刊号に掲載された山際淳司「江夏の21球」のヒットが分水嶺だったと目されている。江夏豊という稀代の名投手の心のうちに迫ることに成功した傑作ノンフィクションだ。一九七九年のプロ野球日本シリーズ「広島東洋カープ対近鉄バファローズ」最終戦の終盤のシーンを、両チームの選手たちに綿密に取材して描くとともに、要所で当時は野球評論家だった野村克也の第三者としての視点を挿入する手法は、日本のスポーツライティングの新しい道を作った。そして、それまでボクシングや野球、陸上などをルポルタージュとして描いてきた沢木耕太郎らとともに、山際らスポーツを専門とする書き手が活躍し、次第に小説家がスポーツの大会に駆り出されることは減っていった。一九九〇年代以降、アスリートを描く散文はスポーツライターの独壇場となっている。「アスリートの知られざる心理を読みたい」というスポーツを観る側一般の需要の拡大によって生み出された分野だと言える。

 一方で、この五十七年間に、短歌の世界ではスポーツの描写形態に散文のような大きな変化はあったのだろうか。

 アベベ走る群を抜きてはひとり走るリズムに乗りて静かに速く

窪田空穂『去年の雪』
(春秋社、一九六七年)

 死は汗のひゆるがごとくきたるべし 真夏砲丸投げのわかもの

村木道彦『天唇』
(茱萸叢書、一九七四年)

 追憶のもつとも明るきひとつにてま夏弟のドルフィンキック

今野寿美『花絆』
(大和書房、一九八一年)

 ジャンプ台を跳び立ちし影天性の輝きに充ち雪に着地す

栗木京子『綺羅』
(河出書房新社、一九九四年)

 サポーター席にゐたならわれも叫びしや ニツポン・ニツポンかなしきニツポン
 
            馬場あき子『九花』
(砂子屋書房、二〇〇三年)

 打球を見つつ走者を見つつ送球を見つつ過ぎたりこの世の五秒

大松達知『ゆりかごのうた』
(六花書林、二〇一四年)

 スケボーの少年少女躍動すヤバすぎる東京オリンピックに

小島ゆかり「月組さんの動画」
(「短歌」二〇二一年十月号)

 一九六〇年代から二〇二〇年代まで十年代毎に、すべて夏季および冬季のオリンピック種目の歌から引いた。どの歌も自らプレーしているのではなく、スポーツを行う者を観ているという視点が共通している。

 「短歌」一九九六年八月号(角川書店)で「大特集スポーツ短歌」という一二七ページの特集が組まれているが、その中で小島ゆかりと谷岡亜紀がそれぞれ近代から現代の短歌から「スポーツの歌を、しかもいい歌を探し出す」(小島)というコンセプトで「五〇首選」を行っている。スポーツをプレーしている「する短歌」とプレーを観ている「観る短歌」に分類すると、「する短歌」の割合が小島選で32%、谷岡選で18%、両者合計で25%となる。また、『角川現代短歌集成 第4巻』(角川学芸出版、二〇〇九年)の「スポーツ」の項掲載の二三〇首では、「する短歌」の割合は22%だ。いずれにしてもスポーツに材を取った近現代の秀歌は圧倒的に「観る短歌」が多いことがわかる。数値に時代差はなく、スポーツを行う様子よりも、行われている様子を観て詠う短歌が多いという点では、今も昔も傾向は一貫している。

 さらに、「大特集スポーツ短歌」の中で谷岡は「二〇〇冊近い歌集に当たりながら気付いたことは、スポーツの歌の場合、作る人と作らない人が非常にはっきりしている事である。スポーツを意識的なテーマとして扱ってきた一握りの歌人がいる一方で、潔癖なまでに歌わない歌人がいる。そして、歌集に一首か二首、たまたま点景としてのスポーツの歌が混じっているのがその他大勢である」と分析しており、この傾向は現在も変わっていない。「大特集スポーツ短歌」では、穂村弘が「『歌人にスポーツマンなし』という冗談めいたテーゼ」とも書いているが、谷岡の言及と併せても歌人には一般に比べてスポーツに対して興味や造詣を深める人は限られているとも考えられる。


(三)プレーを体感「する短歌」

 では、少数派である「する短歌」の例を見てみよう。

  死ににける人との逢ひはただ一度早朝野球の投手対打者

山田富士郎『アビー・ロードを夢みて』
(雁書館、一九九〇年)

  やうやくにインに入りてかろやかに花咲く木々を越えてゆく球

篠弘『濃密な都市』
(砂子屋書房、一九九二年)

  一日中雪山に滑り疲れなしスキーは板に乗ってるだけで

奥村晃作『スキーは板に乗ってるだけで』
(角川学芸出版、二〇〇五年)

 いずれも真剣にスポーツを行うというよりは、余暇を楽しむような雰囲気がある。日常の中の一風景としてのスポーツだ。「する短歌」の多くは趣味の域を描いている。

 ただ、真剣勝負にこだわりながらプレーする様を詠んだ短歌がないわけではない。現代短歌においてこの分野の第一人者は佐佐木幸綱であることに異論はないだろう。若い頃に自らラグビーやボクシングに励んだ幸綱には、こういった有名な歌がある。

 サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん

合同歌集『緑晶』
(一九六〇年)

 ハイパントあげ走りゆく吾の前青きジャージーの敵いるばかり

 ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ

以上、『群黎』
(青土社、一九七〇年)

 一首目はボクシングの練習中、二首目と三首目はラグビーの試合中の歌。いずれも選手としての体感を詠んでおり、プレーする者だけがわかる実感としての説得力がある。これらの歌からは、レクリエーションとしてスポーツを楽しむのとは次元の違う真剣さが伝わる。

 しかし、それよりも真剣さの度合いを上げて、一流のアスリートを作中主体として詠んだ短歌となると探し当てることは困難になる。現代歌人は大抵の場合、兼業もしくは本職を別に持つが、歌人のトップアスリートは聞いたことがない。

 例外として挙げたいのが人見絹枝だ。人見は一九二〇年代に活躍した世界的陸上選手で、一九二八年のアムステルダムオリンピック陸上女子八〇〇メートルで銀メダルを獲得。日本人女性初のオリンピックでのメダリストとなった。文才にも恵まれ、二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)を卒業後、教職経験などを経て、十九歳で大阪毎日新聞社に入社、競技法のほか自伝など数冊の著書を刊行している。人見は結核性肺炎のために二十四歳の若さで亡くなっているが、実は死の直前まで多くの短歌を残している。人見の短歌については日本女子体育大学名誉教授だった三澤光男の研究があり、三澤の論文「短歌からみた人見絹枝の人生」(二〇〇九年)によると、十四歳の作品から数えて一三七首の短歌が見つかっている。人見は陸上競技の選手として知られているが、二階堂体操塾入塾前はテニス選手としても鳴らし、十四歳の時には県大会のダブルスで優勝している。三澤論文によると、その頃に詠んだ歌として次の一首がある。

 午后の陽の照れるコートに我が打てるボールの音の高きうれしき

この歌の内容だけでは、前掲の余暇としてスポーツを楽しむ歌との違いはわからないが、陸上選手として本格的に鍛錬を始めた二階堂体操塾時代以降の歌では、一流アスリートとしての感覚を思わせる歌がある。塾時代の一首と一九二六年のスウェーデン・イエテボリでの国際女子競技大会を前にして詠んだ二首を引く。

 汗流す苦しみを得て今日も又林流れし風にひたるも

『スパイクの跡』
(平凡社、一九二九年)

 今日もまた土の香りにひたりつつ一日まなべりこのグラウンドに

 昨日よりすこしすすみし記録にもよろこびにみつ今の我はも

以上、大阪毎日新聞
(一九二六年九月二十二日)

 一首目、汗を流すことは楽しみではなく苦しみであるという短歌はスポーツ短歌としては珍しく、一流アスリートならではの心持ちを知ることができる。二首目と三首目は素朴な内容ながら、選手としての鍛錬や進化を実直に詠んでいる印象だ。人見の歌は日常生活を詠んだものがほとんどで、テニスにしても陸上競技にしても、競技そのものを詠んだものは前掲の歌程度である。逆に船旅の海外遠征も含めての多忙な競技生活から意識を離すための息抜きに作られたものではないかと推察される歌が多い。

 人見の一流アスリートとしての強さを感じることができるのは、入院中の病床で死の前日に「ノートに走り書きとして遺されていた」(三澤論文)次の歌ではないか。

 息も脈も熱も高しされどわが治療の意気さらに高し

 死の淵での強靭な精神力を思わせる意味内容と、もしかしたら無意識のうちに「息」「意気」と「高し」のリフレインで整えた音は、アスリートと歌人の心意気が合致した瞬間にも思える。

 オリンピックのメダリストが日常的に短歌を作っていた人見のケースは稀有な例だ。しかしながら、「する短歌」という意味では、人見の歌が競技での一流アスリートの体感を伝えているとは言い切れない。世界を舞台に、あるいはプロ選手として戦うアスリートの競技における主体的な実感に迫った短歌は、まだこの世に生まれていないのではないか。

 むしろ、日常のふとした運動を詠むことで、図らずもスポーツの本質に迫った歌は生み出されている。例えば、次の二首はどうだろうか。

 誰の足がもつとも高くあがるかといふだけのことに真剣になる

 まなくしてみづからの部屋に戻りたり娯楽は吾を楽しくさせず

安立スハル『この梅生ずべし』
(白玉書房、一九六四年)

 奇しくも最初の東京オリンピックと同年に刊行された歌集において、この二首は「日記」という連作の中に連続して置かれている。一首目、足を上げるという行為だけでもどういうわけか競ってしまう。競技でなくとも競う気持ちが湧く。この感覚こそが競技という概念の発祥の真理ではないかとさえ感じる。そして二首目、すぐに競うことでは喜びを得られない現実に戻る。競っては、我に返る。この心理の循環が、人々にスポーツの試合を繰り返させているように思えてならない。


(四)「観る短歌」の創作的発展

 一流アスリートがプレーするスポーツを観るという文化は、一九六四年の東京オリンピックのテレビ中継を契機にして一気に日本人の間に広まった。それまでのスポーツ報道はラジオと新聞が中心。つまり、実際のプレーの醍醐味を観るのではなく、音や文字から試合結果を知ることが主流だったのだ。内閣府発表の「主要耐久消費財等の普及率」によると、テレビの世帯普及率はテレビ放送開始まもない一九五七年では10%に満たなかったが、一九六五年には90%を超えている。これには自国開催のオリンピック放送が大きく寄与しており、東京オリンピックを境に日本には「スポーツを観る文化」が根付く。そういった背景もあり、スポーツ観戦そのものの体験を深く詠んだ「観る短歌」も生まれ、スポーツを観ることから発した感覚もバリエーション豊富に表現されるようになる。中でも一九九二年、プロ野球観戦を主題にして第三十五回短歌研究新人賞を受賞した大滝和子の連作「白球の叙事詩(エピツク)」は、スポーツ短歌に新たな視点を持ち込んだと言っても過言ではない。

 異星人にも野球伝われ ピッチャーの血つくボールは地球のレプリカ

 神あるや神あらざるや野球という三進法を見ているときに

 ボールの起源たどりてゆけばそのむかしアダムとイヴに食われた林檎

 バットをば宇宙の中心地点とし五万人の観衆はなやぐ

 九回のイニングそれぞれ異名あれ 水・金・地・火・木・土・天・海・冥

大滝和子『銀河を産んだように』
(砂子屋書房、一九九四年)

 目の前で行われているプレーの写生や、「見ている私」の気分を歌にするだけでなく、野球というゲームをさらに大きな世界へとつなぎ合わせている。第三十五回短歌研究新人賞の選考委員会で、選考委員の岡井隆が「(この連作には)ちょっと哀感がないでしょう。野球にはやっぱり何か哀感があると思うね」と指摘しているが、対照的に高野公彦は「悲壮なものではなくて、単にゲームなんだ、というカラっとした考え方で野球をとらえている。(中略)例えばカントとか、ああいう哲学者が野球を短歌にすればこういう歌を作るのじゃないか、そういう面白さですね」と評価している。選手の肉体の動きや試合から発せられる勝敗への哀楽を排し、異次元や異空間へと思考が向く点で、「観る短歌」の創作的な幅は広がった。

 さらに衛星中継や衛星放送、インターネットの発展により、海外での試合も手軽に観戦できるようになり、今世紀に入ってからはヨーロッパのサッカーや野球ではアメリカのメジャーリーグなどを中心に、海外の一流アスリートのプレーを楽しむ習慣も根付いた。海外の選手たちのプレーを観て、日本人同士の試合では感じることができない雰囲気を味わうことができる。二〇一八年に第三十回歌壇賞を受賞した高山由樹子は、その受賞のことばなどで海外サッカーへの造詣の深さを示しているが、筆者によるインタビューでの「スポーツ短歌は作らないのか?」という問いに対して次のように答えている。

《くさはらを駆けたいのです、腑の奥のなにかがふいにつげる欲望》という歌はエディンソン・カバーニ(ウルグアイ代表のサッカー選手)を見て作った歌ですが、「カバーニ」って四文字を使ってどれだけの人が私の思うカバーニの情報量を得てくれるだろうかと思うと、そのまま使うわけにはいかなくて、彼に対する思いそのものを歌にするしかなくなるんですよね。固有名詞を入れると場所を取るから、受け取る人によってはさっぱりわからないこともある言葉を使うのには勇気がいりますよね。

高山由樹子ロングインタビュー
「午前四時の痛みを」

(「砂糖水」第二号、二〇一九年)

 観戦できる海外の大会やリーグが無数になり、日本では馴染みが薄いスポーツ選手にも触れ、心を揺さぶられる可能性も増えてきた現状を示している。現代において、例えば「大谷翔平」や「池江璃花子」は固有名詞として広くイメージが定着しているが、確かに「カバーニ」ではそうはいかない。それでもカバーニについて詠みたいという高山の欲求は、一見スポーツ短歌とはわからない形で表現されることになるが、余計な説明を排している分、実はカバーニの本質に近づいているようにも思える。こういった作風の場合、スポーツを題材としていることはわからないが、高山作品以外にもこのような着想で作られた「隠れスポーツ短歌」はあるのかもしれない。

 いずれにしても、ここで引いた大滝や高山の歌のようなユニークな発想の源にスポーツがあることから、スポーツのプレーが観る者の感性に働きかける強い力を持っていることが改めてわかる。


(五)短歌はアスリートを詠めるのか

 ここまで見てきたように、一九六四年の東京オリンピックから今日まで、日本のスポーツ文化は大きな発展を遂げ、産業としてはマスメディアを通じて肥大化し、それに伴い民衆の享受の仕方も変わった。一方で、短歌におけるスポーツは、スポーツ文化や現代短歌の手法の変化とともに「観る短歌」としての表現が更新されつつあるものの、依然として「する短歌」の土壌は広かっていないように見える。特に記録や技術で各競技のトップクラスにある選手の内面に迫った歌はなかなか見られない。その一因として、トップアスリートの中に、自らの体験を詠む歌人がいないことも挙げられるのではないか。

 スポーツ界以外に目を転じると、各分野で先端を行くような実績を残している専門家が歌人としても旺盛に作歌しているという例はいくつもある。例えば科学者である。

 カリフォルニアより遺伝子届く遺伝子は微量、花粉のこぼれたるより

永田和宏『華氏』
(雁書館、一九九六年)

 情報科学博士は情報屋さんといふ 十億分の一秒を研ぐ

坂井修一『ジャックの種子』
(短歌研究社、一九九九年)

 永田和宏は細胞生物学者として、坂井修一は情報工学者として、それぞれの分野で現在も世界的な活躍をしながら、歌壇でも中心的存在として活動している。ここに引いたいずれの歌も科学者でなければ知り得ない感覚を見事に一首として提示している。科学者と詩歌の関係性について、松村由利子は次のように記している。

「センス・オブ・ワンダー」は、世界の不思議に感動し、探求する心であると同時に、身近な草花や小動物にも詩を見出す心である。文系、理系という分け方をする日本では、二つの心がかけ離れたものと思う人も少なくないが、優れた科学者のなかには素晴らしい詩人が数多く存在する。科学者のまなざしは、ありふれた風景のなかに物理の法則を見出したり、生命の歴史を感じたりする。それは知識というよりも、もっと深いところに潜む美を見出す力である。

松村由利子『短歌を詠む科学者たち』
(春秋社、二〇一六年)

 文系と理系の壁よりも、体育会系の壁の方が短歌にとっては高くて厚いことは間違いないだろう。

 科学者よりもアスリートに近い仕事として、人前で驚異的な能力を見せるという意味では俳優が挙げられるのではないか。先の科学者たちのように長年歌壇を牽引してきた歌人ではないが、昨年刊行された著書より引く。

 感情のアイドリングを続けると時折満ちるむム無の砂漠

 「カット」の声はたと戻った現実は冷蔵庫の奥アレの賞味期限

美村里江『たん・たんか・たん』
(青土社、二〇二〇年)

 俳優の美村里江は、演技について積極的に短歌に読み込んでいる。前掲の二首とも感情を作ることを専門としている人ならではの「センス・オブ・ワンダー」がユニークに表されている。

 しかし、ここで紹介した科学者や俳優とは違い、アスリート当人に本職と短歌の二刀流を望めないのであれば、どのようにトップアスリートの「する短歌」を実現させれば良いのか。その方法としては、歌人がスポーツライターのように選手への取材を行い、「アスリートが作中主体の短歌」を詠むしかないのではないか。この方法は作者と作中主体がイコールでないことが前提となり、短歌の読みに大きな影響を与える「私性」の問題とも深く関わる。しかし、歌人が自らではない実在の人物を作中主体にする方法は、スポーツだけではなく、これまで短歌に詠まれてこなかった様々な世界の「センス・オブ・ワンダー」を切り開いていく可能性を秘めている。

 これまで近現代短歌は、作中主体と作者をイコールで結ぶ(ように見せる)ことでリアリズムを保ってきた。しかし、この方法では実在するトップアスリートの真の感覚には迫れないことは見てきた通りだ。よって、最先端のスポーツの感覚を表現するには、ノンフィクション作家のような歌人の仕事が必要となってくるのだ。散文でのノンフィクションの仕事とは異なり、短歌である限り一人称で表現することが原則となるだろう。

 短歌にこの方法を用いるには危険も伴う。作者が空想の作中主体を作り出すいわゆる虚構との違いをはっきりと示せなくてはならない。虚構はむしろスポーツ小説の形に似るが、ノンフィクションとしての真実性からは遠ざかる。スポーツライターらノンフィクション作家が散文において、当事者の発言を要所で挟むことによって真実性を担保しているようなことが、短歌においてもできるのか。連作であればハードルはある程度低くなるが、一首では成り立たせることは可能なのか。まだまだ課題はある。

 しかし、一瞬の動きに勝負の分かれ目が劇的に表出するスポーツという分野は、一瞬を真実として切り取る短歌での表現とは相性がいいはずである。そういった分野から、短歌の新しい可能性を探ることは、無駄な挑戦ではないと考える。

(初出 「かばん」二〇二一年十二月号)

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