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裁つしかない世界で/もちはこび短歌(27)

どんな日の置手紙にもなるだろう七百万画素で空を裁つ
toron*『イマジナシオン』(書肆侃侃房、2022年)


 toron*さんの第一歌集『イマジナシオン』から、いくつかある空を見上げる歌の中でとりわけ印象的だった一首。

 結句の「空を裁つ」の巧さには舌を巻く。

 下の句は一読して(おそらくスマートフォンで)空を撮影した様子だとわかる。そんな日常的な風景を「裁つ」ことで、世界の成り立ちにまで触れるような非日常的な思考に導かれるように思う。

 「空」をまるごとは写せない。どんな広角レンズを用いても、すべての「空」を一枚の写真に収めることはできないのだ。よって、写真に収められた「空」は必ず一部分が切り取られており、その切り取る行為をtoron*さんは「裁つ」と表現した。下の句の14音を「七百万画素で/空を裁つ」と9音と5音に分け、さらにその最後を「裁つ」のたった2音で締めたリズムがキャッチーで、自然と記憶に刻み込まれる。

 この歌は、空をきっかけに、この世界は切り取るしかないものばかりだということに気づかせてくれる。わたしたちの目は、心は、ほとんどの事象を自分の理解できるサイズに切り取って受容している。パンを食べやすい大きさにちぎるように。この歌では、それが「七百万画素」という大きさだった。

 そうするしかないのだ。世界を、他者を、すべてまるごと受容することは難しい。それが世界の成り立ちだということを、そっと示しているのが上の句の「どんな日の置手紙にもなる」ではないか。この提示に深く頷く。

 わたしたちは連綿と続く時間の流れを「日」という単位に分けて認識する。あるいは、分や秒に分ける。時間だけではない。国とか、街とか、家族とか。常に何かを「裁つ」ことで小分けにする癖が、人類の生活そのものであると言ってもいいのではないか。でも、切り取った日も空も、実はわたしたちは意外とその違いを認識することはできていない。だから、いま現在を「置手紙」として切り取った空は、いま現在以外のどの日と組み合わせも似合ってしまう。

 この歌をわたしが好きなのは、切り取りとそれによる差別化に熱心な人類に対して、「そうする癖は仕方のないことだけれど、どの空もどの日も、いつだって同じように愛しいものだよ」という平等な肯定感を投げかけてくれているように感じるからだと思う。

 短歌は一瞬の景や気持ちを「裁つ」文芸として機能することが多い。この歌もそうだ。しかし、同時に「いまここにしかない」一瞬ではなく、代替可能な瞬間として切り取ったところにこの歌の非凡さを感じる。替えの効かない瞬間は確かに美しいけれど、多くの瞬間は凡庸なのだ。だからもっとのんびり捉えていい。特別ではない日常だっていいものだ。まるでそんなことが書かれたtoron*さんからの置手紙のように、わたしはこの歌を時々思い出している。

文・写真●小野田光

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「もちはこび短歌」では、わたしの記憶の中にあって、私が日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。

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