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ひろってはいけない心のおとしもの⑧


何日も前から「なにか落ちてきそう」と感じていたわたしは、きっと、△△デパートから飛び降りようとしていた男性の『負のnegai』をひろってしまっていたのだと思う。

そういう考えかたをすると、今までの周りで起こっていた数々の事件も(直接的でないものも含む)、合点がいく気がする。


そしてこうも考えた。


飛び降りた○○デパートのほうの男性(助かったひと)も、わたしと同様に、裏道で飛び降りた△△デパートの男性の"負のnegai"を拾ってしまっていたのかもしれない、と。


強い負のnegaiはその場に残るのではないか


それをひろったわたしは、あの場所で、

『デパートのうえからなにか落ちてきそう』と、嫌なキモチ悪さとして感じ、

○○デパートの男性は、

 負のnegaiをひろったことで、『朝、デパートのうえから落ちよう』と、じぶんの決意として勘違いしてしまう。


嫌なキモチになるだけだったわたしと、

ほんとうに同時刻にデパートから飛び降りた彼。


その違いはなにか。


それは、"素地"だと思う。


もう死んでもいい、と、自暴自棄になっていたり、悩みや不安をかかえていたりしたひとが、

「落ちて死にたい」

という誰かの"強い負のnegai"である心のおとしものを拾ってしまうことで、ますます負の感情が強まるのだと思う。


強い負のnegaiは、まるであたかもじぶんのキモチのように勘違いをしてひとを狂わす


意識しているわたしでさえ、受心したときは、じぶんのキモチだと錯覚しそうになるときがある。


他人の負のnegaiを受心してしまうことは、とても恐ろしいことなのだと思う。


「死にたい」という強いnegaiは、たくさんのひとに悪影響すると思っている。


それが長くいろいろな不思議な体験をしてきて得たわたしの考えかたになっている。


(おしまい)