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君のクイズ

「君のクイズ」を読みました。生放送のクイズ番組で、問題を読み上げる前に早押しし正解を導き出したのはヤラセだったのかどうか、対戦相手がその真相に迫るお話です。冒頭から結末が気になり、早く知りたいと思い続けて、読み終えるまで一直線。とてもおもしろかったです。

主人公の三島が、本庄の0文字押しのヤラセ疑惑について、クイズと自分の人生とを重ね合わせながら真相に近づいていく様子は、理論的でありながら心情的にも納得感があり、爽快感がありました。
一方の、対戦相手である本庄の種あかしでは、意外な真実をあっさり白状する肩透かし感があって、その落差といったら無かったです。
今まで私が経験してきた謎解き系物語のどんでん返しは鮮やかで、まさか!そうだったとは!という衝撃と感動があったものですが、そのどんでん返しへの期待をもひっくり返されるのは、たぶんはじめての経験で、「ほんとうにびっくりした」というのが正直なところです。

視聴者は、「番組制作者の意図」にまでは想像が及んでも、「出演者の意図」にまではなかなか行きつかないものだと気付かされました。制作者の意図は過剰に勘繰るわりに、出演者のことは見たままを信じたがるところがあるように思います。

そういう視点でいうと、三島は視聴者(私)のイメージする理想的な出演者でした。クイズに正面から取り組む誠実な態度、ヤラセ疑惑に冷静に向き合う姿勢。
賞金1000万円という大きなクイズ大会の回答者、しかも決勝にまで駒を進めるような人は、正直で、誠実で、いい人に違いないという思いが、メディアの出演者に対する決めつけや妄想の押しつけの始まりなのでしょう。

テレビを見ている時、自分の感想が希望的観測に寄りすぎてるなとか、分析を通り越して妄想が楽しくなっちゃってるなと自覚する機会がよくあります。出演者があえていい面だけを見せているから視聴者がそう思い込むのではなく、よくない面を見せていたとしても、番組ではあえてヒールを演じているだけで本当は優しいはずと思うことすらあります。そういう視聴者がもつ出演者がいい人であってくれという願望が、不祥事が明るみになったときに裏切られて、過剰な叩きに通じていくのだと思います。

実は、テレビ番組や劇場での演目を楽しむことに留まらず、応援している芸人さんの性格や人柄だけでなく人間関係までをもエンタメの対象としていることに、罪悪感があった時期がありました。興味を持った芸人さんを観察し分析し、自分なりに気が済むと、次の人をまた観察し分析する、その一連の自分の行動がよい応援のしかたではないような後ろめたさがあったのです。最近、その罪悪感はほとんど無くなりました。こういうの見てみたいな、という舞台裏の映像やエピソードをここまで視聴者の要望に応えて見せてくれるということは、視聴者が性格や人柄、人間関係をもエンタメとして消費することを許容し、その需要に応えてくれている気がしてきたからです。
YouTubeで相関図が流行ったのも、わたしと似たように人間関係(とそれにまつわるその人の感情を推しはかること)をエンタメにする人が多いということなのかもしれません。

作品の内容とはかけ離れた気がしますが、読後の思考の着地点はこんな感じでした。

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