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1993年冬、北京ーモスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人③

1993年1月21日 2日目 モンゴルのカラフル税関職員とトイレ問題

国際列車のイミグレーションはいかなるものかと興味はあったが、いかんせん眠い。しばらく眠気と戦っていたら、隣のコンパートメントの方から女性の、しかし野太く低い声がした。言っていることが分からないので、モンゴルの税関職員だろう。すると私たちの部屋のドアが勢いよく開き、若い女性職員が現れた。

日本の男性警察官がかぶっているような帽子、カーキ色のブレザー、後ろにスリットの入った同色のタイトスカート、防寒対策万全の黒のスパッツに茶色のブーツ、手には入国スタンプというお堅いいで立ちと、細かなウエーブの入った肩までの長さの明るい茶髪に南国の鳥さながらのカラフルなアイメイク、濃いチークの入った頬と真っ赤な口紅という、全体的にはかなりアンバランスな彼女を見て、あれだけ眠たかったのに一瞬で目が覚めた。オイ! と声を掛けられたのでパスポートを差し出すと、この大柄な女性職員は実物の私とパスポートの私を穴のあくほど見比べている。「オイ!」とはなかなかインパクトのある言葉だが、もしかしたら人に呼び掛けるときにモンゴル語ではこういう風に言うのかもしれない。私がそんなことを考えている間も彼女はさらに入念に、私の顔と写真を眺めている。言葉による意思疎通ができない今、怪しいもんじゃあございません、確かにアタシでございますと伝えたいとき、いったいどうしたらいいんだろう。確かに私は中国で過ごしたこの二年間で、体重が7キロほど増えていたが、人相が変わるほどの大変化ではなかったはずだ。


お姉さんの顔面カラフルが衝撃的過ぎてわざわざイラストまで残してしまった。「女の顔は、キャンパスよっ!」というセリフはどの漫画の誰のセリフだったか。まさにオウムがキャンパスで踊り狂っているようなメイクだった。そして「制服」の漢字が間違ってますねっ!

女性職員はこうして、私たち四人のパスポートを一冊ずつじっくり眺め、スタンプを押して出て行った。単に仕事熱心なだけであった。時計を見ると午前2時20分になっていた。

室内はさほど寒さを感じないが、窓の近くに顔をやると、隙間風が吹き込んでいるわけでもないのに冷たい空気が頬に張り付く。そういえば日が落ちる前から、窓の内側の取っ手やガラスの部分が凍っていた。二重窓になっているのに。

ドゥオドゥオたちはまだ、荷物の運び込みに余念がない。私たちが乗っている車両の乗客のほとんどは、中国人行商人だ。彼らは列車がモンゴル税関に到着する直前まで、各自のコンパートメントに売り物を運び込んでいて、ドゥオドゥオとアイジュンは今、私のベッドの下の隙間にまで荷物をギュウギュウ押し込んでいる。北京駅で積み込んだ荷物のほかに、途中の停車駅からも荷物が運び込まれたからだ。売り物を効率よく手配できるような行商人ネットワークができているのだろう。最初に「これって闇市と同じでは?」と思ったとおり、停車駅の何か所かでは、ドゥオドゥオが「警察が来た!」と言いながら部屋に駆け込んでくるやいなや、バシンと内カギを閉めていた。やっぱりヤバい仕事なんだなと思っていたら、こんな真夜中に車掌がやってきて、荷物の中から勝手に売り物を引っ張り出し、「こんな服、なかなか売れないだろう」などとケチをつけている。鉄道職員は警察じゃないから、乗客がなにをしても関係ないと言えばそうなのかもしれない。

今日の移動は北京―大同―フフホト―二連浩特―モンゴル。こうして怒涛の一日目が過ぎて行った。明日、いやもう今日になるが、旅の二日目は一日かけてモンゴル国内を通過するそうだ。

今日食べたもの。
朝食:クラッカー、チョコレート、お茶
昼食:チーズ、ソーセージ、クラッカー
夕食:昼と同じ
おやつ:ドゥオドゥオにもらったバナナ1本、ミカン3個

明日はちゃんと食堂車で、なにか暖かいものを食べたい。

寝る前にトイレに行った。便器は洋式で、座る部分は金属製だった。最初に見たとき、この寒い中、生の尻を金属に乗せるなんてとても無理だろうと思ったが、次の瞬間、いやそんなことは起こらない、いや絶対に起こさないと誓った。間違いなく六日間自主的に便秘になりたくなるくらい、汚かったからだ。

どう考えてもここに尻は乗せられない。しかしほかにトイレはない。だから中腰になるしか手がないのだが、ナニ人仕様なのか知らないが、便器の高さが高い。結果、つま先立ちで空気椅子という、かなり苦しい姿勢にならざるを得ない。しかも車内は揺れている。こうなったら、便器の前の壁についている取っ手だけが頼りである。

毎日何度もこれを続けていたら足腰がかなり丈夫になるんじゃないか。そんなことを考えてしまうくらい、用を足している間中腹筋と足がプルプル震えていた。ちなみにトイレに紙があることはめったにない。運がよければあるかもしれないが、たいていは誰かがホルダーから外して持って行ってしまうからだ。

トイレにも衝撃を受け、眠いのにこれまた日記に記す。このショックを残したいのか忘れたいのか何度も反芻して思い出して味わいたいのか。

なお、「トイレの水は凍らないのだろうか」という疑問はすぐに解決した。足元のペダルを踏むとお湯が流れてきたからだ。一番肝心なところは、やっぱりちゃんと押さえてあった。午前2時40分、就寝。
 (つづく)

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