無題

ダンサー 權田菜美さんにお聞きしました

デザイナー山下陽光さんの主催する『バイトやめる学校』で知り合った權田菜美(ごんだなみ)さん。当時、好きなこと、得意なこと、世の中に必要とされることを、どう掛け合わせて生きていくかをディスカッションし合ってから丁度一年。今も話していると、同世代の女性として、共感できること、励みになることがたくさんあります。

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ー 丁度一年前、『バイトやめる学校』で知り合った時は、ダンサーとしての自分が生かせる仕事がしたいと仰っていましたが、今の仕事はどんな感じなんですか?

個人に対して、またジムや学校、CINRAというキュレーションメディア等を運営する会社などで、ストレッチを教えています。

他には毎週一度、高円寺の自由芸術大学でストレッチ講座を、毎月第三日曜には、高円寺のLoca Kitchenというビーガンカフェバーで「おいしいストレッチ教室」というデザート付きの講座などを主催しています。

単発で国内外問わず、踊ったり、教えに行ったりすることもあります。

あと、ダンスやストレッチは関係ないけれど、身体に関わるということで、呼及舎という友人のヘルパー派遣会社を週一度手伝ったりもしています。私は福祉大学を出ていて、資格も持っているので。呼及舎は、今の福祉業界に対してすごくチャレンジしているんですよね。

ー 菜美さんのSNSを見ていると、福祉を含め、いろいろな社会問題についてもよく発信していますよね。昔からそういうことに興味があったのですか?

子どもの頃から、例えば自分はここで平和に暮らしているのに、世界にはどうして食べ物がなくて死んでいく子がいるんだろうということは思っていました。

田舎で育ったから環境問題にも興味がありましたね。

例えば、生活排水を流していた川に蛍が来なくなって、その後下水道設備が整えられたら蛍が戻ってきたことがあって、やっぱり自然環境を守ることって大事なんだと知ったり。

高校生の頃から、大学では絶対社会問題のことを勉強したいと思っていました。

大学進学は家から通えることが親の条件だったので、愛知県の日本福祉大学に当時新設された、国際問題も勉強できる学科に行きました。

国際的な仕事をしたいと思うようになったので、大学院卒は必須だと思い、その後は、自分が学びたいと思った教授のいた上智大学大学院に進学しました。その頃は親も、自分が実家を出ることは仕方ないなと思っていたと思います。

ー 大学院は東京だったんですね。ダンスはいつやっていたんですか?

高校の部活がダンス部だったんですよね。創作ダンスの大会で全国一位を目指しているとても厳しい部で、入部するのにオーディションがあり、受かるのは希望者の半数ほどという部でした。

元々はその高校の留学制度を利用したいという思いで入学したのですが、入学以前に、そこのダンス部の発表を観る機会があって、部活はダンスにしようかなという気持ちで。

ー 実際入部してみたらどうでしたか?

日々本当に厳しい練習で、精神的にも結構追い詰められましたね。

自分のポジションが欲しかったらオーディションに受からないといけないし、オーディションに受かってポジションが取れても、うまく踊れなかったら降ろされるんですよね。

辛くても辞めたいと言える雰囲気ではなかったですね。とても言えませんでした。笑

結構良い成績も修められたし、ありがたいものもたくさんもらったけど、精神的苦痛もかなり大きかったので、引退と共にもう絶対踊りたくないって思ったんですよね。

高校の部活ですらセンターダンサーにはなれなかったのだから、プロには絶対なれないなと思って、勉強も好きだし大学に入ったら勉強に専念しよう、ちゃんと稼いで自分一人で生きていける女になろうと思ったんですよね。

ー 大学は楽しかったですか?

はい。周りの子が信じられないくらい優しかったんですよね。高校時代の部活がすごく厳しかったから、最初はびっくりしました。

新設の学科だったから、自分たちが「こんなことをやりたい」と思って行動したら、実際にいろいろなことが実現して、それも楽しかったです。

例えば、元々はゼミがなかったのですが、少人数でディスカッションがしたい!という希望を先生方や大学側に聞いてもらえて、単位外ではあったけれどゼミを作ってもらえました。そういうふうに、やりたいことは署名を集めてお願いすれば、どんどん実現してもらえたんですよね。

先生や事務の方たちにも、權田っていううるさい子がいるよねって、思われていたと思うんですけど、それなりのお金を払って通っているんだから、やりたいと思ったことを言ってもいいんじゃないかと思ったし、実際それに応えてくれる大人がいるのがありがたかったです。

ー 私はその頃「自分で考える力」というものがなかったので、学生のころからそういう信念を持っていた人ってすごいなあと思うんですよね。

私は、もの心つくくらいの小さい頃から「言葉と知識は自分を助けてくれる」って思っていたんですよね。

ー えっ?

小さい頃、日本語ってすごいなって思った瞬間がたくさんあったんですよね。

ちゃんとした日本語を喋るようになる前の小さい頃に、自分語というか、何か他の言葉を喋っていた記憶があって、でもその言葉は大人たちに通じなくて。

でもある日「日本語って通じる!便利じゃん!」って思ったことを鮮明に覚えているんです。もちろん、小さいから日本語とかそういう概念では考えていなかったですけれど。

その時に、「知らないことを知るのはすごい!親に疑問を訴えるのにも言葉は必要なんだ」っていうことがわかったんですよね。

ー 子どもは、言語化できなくても大人のようにいろいろ考えているんだろうな...とは私も思うけれど、子どもの頃すでにそういう概念があったのも、それを今覚えているのもすごいですね。。。

実家は自営業なのですが、父親は自分だけが全て正しいと言う考え方だったんですよね。

父親の本音は、早く嫁に行って幸せになってほしいということだったと思うのですが、なんで「女だからできない」「女には必要ない」みたいなことを言うのかなあと、反面教師みたいに思っていた部分もあります。

そういったことで、進学やお金を稼ぐという概念は分かっていなかった子どもの頃から、漠然と「自立したい」ということは思っていたんですよね。

割と勉強が得意だったから、女でも勉強すれば、男性に頼らなくても自分で生きていけるとも思っていて。

ー 菜美さんは、本当に頭がきれるなあ、スポーツもできるしなあって思うんですけど、私が人生で出会ったそういう人って、結構厳しい人が多かったんですよね。でも菜美さんて、すごく優しくて、そこも魅力だなあと思います。

そんなことないですけど、まあダンサー向きの性格ではないなあとは思いました。人を蹴落としてセンターに!という感じではないなあと。

じゃあそういう自分をこの部活で活かして行くにはどうしたらいいのかっていうことは考えていましたね。

キャプテンの叱咤激励に、ちょっとついていけないという子たちを励ますようなポジションがいいのかなとか、センターにはなれないけれど、振り付けとかのデザインは頑張ろうかなとか。野望みたいなのは足りなかったなあとは思いますけど。

ー 大学院から東京に出てきたということですよね。卒業後はどうしたんですか?

大学院卒業後は就職したのですが、そこはかなりのブラック企業で、そこを辞めてから、上智大学の研究所で働いていて、その間にダンスを再開しました。

研究所の仕事はとても有意義で、長く続けたいと思っていたのですが、数年後には、ここにいても私が自分の人生の主役ではないと思ったんですよね。

先生方の秘書的な働き方は素晴らしく、自分を活かせたし、研究所を活性化して、先生方や学問や学生を助けていくのは本当に必要な仕事でした。ただ、1年契約で、5年上限の雇い止めがある雇用契約に未来を見ることができなかったんです。そこで、一回辞めてみようと思ったんですよね。

ダンスで食べていくっていうのは無理だけど、働きながら余暇でダンスができる正社員の仕事をしたいなと思いました。

ー その頃はダンスを再開していたんですね。高校卒業と同時にダンスをやめて、再開するきっかけはなんだったんですか?

311なんですよね。東日本大震災の後に、友達が路上でゲリラパフォーマンスをするという企画を聞いて、私も参加したいと思ったんです。

誰が何をやってもいいという感じだったので、自分で振り付けを作って踊ったら、ダンスにおいても、まだ自分にできる事ってあるんだなって思ったんですよね。

高校時代にダンス部では「心で踊る」と教えられてきて、それは伝えたい事を身体表現にのせるということだったのですが、2013年当時、「今なら大学や大学院で勉強してきた社会問題を、ダンスでも表現できるんじゃないか?!」ってピンと来て。モダンダンスっていうジャンルになると思うのですが。

そして、一緒に振り付けや音楽をやりたいっていうアーティストの人たちとも繋がっていきました。

この時にダンスともう一度出会い直したという感じです。

そして、大学院の研究所を辞める決意をして、ダンスと仕事を両立できるような仕事を探すために就職活動を始めました。

その時、ハローワークでたまたま出会った不動産会社の方が、自分のことをすごく気に入ってくれて、とりあえずその会社の面接に行ったんですよね 。

そうしたら、採用担当の人が私の Twitterなどを全部見ていて「ダンスや社会運動をやってるんですよね。ダンスのことで仕事を休んでも大丈夫なので」と言ってくれたんですよね。

ー 不動産会社は菜美さんのどんなところを気に入ってくれたんですか?

新しく事業部を立ち上げるから、その運営を担当してほしいということで、以前大学の研究所でやっていた業務も結構活かせることがあったので誘われたみたいです。

なので、その会社に入社して、ダンスの活動もしながら約1年そこで働きました。

そして去年、友達から一緒に起業をしないかという話があって、その会社を辞めたのですが、その話が結局なくなってしまい、去年の夏本当に無職になってしまったんですよね。

以前の自分だったら、ともかく正社員で安定した収入の仕事を見つけなければ!って焦ったと思うのですが、我慢できないほど踊りが好き、踊りだけで生きていけないと自分に思い込ませているのは自分自身のような気がして。

その時はもう腰が据わっていて、これはもう一人でなんかやれという事なのかなと思ったんですよね。

ストレッチ教室は、会社を辞める前の2017年の4月から始めていたので、今はそんなふうにストレッチを教えることもできるし、踊りについても、できることはいろいろあるなと思えました。

自営業は選択肢が自由ですよね。「嫌だけどお金にはなるかな」と思う扉を開けると、そっちの方面の扉ばかり開き続けるということに気づきました。

それをやめてみるとまた違う扉が開いて、収入は減るけど、そこにはやっぱり心地いいなって思うことがあるんですよね。苦労がないということは違うけれど。

そういう扉を開けると、その先にもそういう扉ばかり現れるんですよね。

今は自分が好きだと思える扉を開け続けていくことが大事だと思っています。

ー 先のことは決まってないけれど、進んでいる方向は間違いないということですか?

そうですね。自分がイメージできないことは自分の人生に起こせないと思うんですよね。

自分にとっての心地いい場所を選ぶ嗅覚っていうものは身についてきたなあと思うし、踊り手としてはまだやりたいことがたくさんあります。

あとは、おばあちゃんになるまでにやってみたいことがあるんです。

もっとアーティストとかパフォーマンスする人、オーガナイズする人にもお金がきちんとを回る仕組みを作りたいっていうのが、一生追求したいことですね。

来年の9月には、パートナーの大学の関係で一緒にニューヨークに行きます。自営業なのだから、東京を離れてもいいんだよな、それも好きにできるんだよなと思っていたところだったので即決断しました。

向こうで自分の仕事が決まっているからニューヨークに行くわけじゃないけれど、やってみたい事もあるし、どこに行ってもきっと、自分にできることはあるんじゃないかと、今は思えます。

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自分が素直に好きなことを選択していくと、次の扉が自然に開いていくというのは、菜美さんが自営業になった最近気づいたことだそうですが、菜美さんは、実は人生の最初からそんな選択をして来ていたのではないかなあと思いました。

自分も、今の歳からでも、同じように好きなことを選択していけば、きっと良い扉が開き続けるのではないかと希望が持てました。


權田菜美(ごんだ なみ)
dancer / performance artist / choreographer / CINRAストレッチ講座講師 / 自由芸術大学 / 東京国際フランス学園ダンス講座講師 / おいしいストレッチ教室主催

高校時代ダンス部において、モダンダンス,創作ダンス,ジャズ,クラシックバレエなどを学ぶ。2011年以降、コンテンポラリー,気の道,柔術,パフォーマン・スアート・舞踏・歌舞伎を学び、ジャンルを横断しながら、自分と自分の肉体を大切にした自分のスタイルを追い求めている。
http://gonna-dance.hatenablog.com/

#インタビュー #權田菜美 #ダンス #ストレッチ #ストレッチ教室 #ダンサー

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。