山田詠美 著『つみびと』
あらゆる犯罪に対して、「どんな理由があろうと許されない」という言葉は正しいのだろうけれど、この場合の「理由」においては、すべて想像の範囲内だという意味も含まれているように感じる。
『つみびと』は2010年に大阪で起きた、二児置き去り死事件を元に書かれた小説だ。
虐待を受けて育った人間は自分の子供も虐待してしまう
周囲に頼れる人間が誰もいなかった
無知で社会のルールを知らなかった
なぜ防げなかったのか
当時、たとえば数分~数十分のニュースの中で出てくるこういったコメントに、それは新しい視点だ!と思うことはあまりなかったし、自分もこのくらいの温度の言葉でいろいろな事件について話していたりするだろう。
でも現実はそんなに簡単な話ではない。
私は今、たまたま運良く、明日の生活に困ってはおらず、健康で生きていられるけれど、もしあのとき悪い方向へ行っていたら、家族の病気が重篤だったら、社会がもっと不況だったら、私がもっと深く心を病んでいたらなど、
何百も存在していた過去の分かれ道が、たまたま悪くない方へ向かっていただけで、今を生きることができているし、これからのことは分からない。
人間それぞれの人生における無数の分かれ道は、自分の意思だけではなく、自分の親、自分の親の親、それぞれの家庭環境によって生まれた時からもたらされているものもたくさんあるだろう。
私はそういったことにも、自分の想像が及ぶとこれまで大きな勘違いをしていたのだろう。
たとえば「虐待を受けて育ったら自分も子供に虐待をしてしまう人がいる」という言葉は事実なのだろうけれど現実をあまりに省略しすぎだ。そんなに単純な話ではない。
それをノンフィクションよりも深く深く掘り下げていけるのが、小説なのだ。神戸連続殺人事件を元に書かれた、窪美澄さんの『さよならニルヴァーナ』を読んだときも思ったけれど。
自分と同じ人間が人間としてそこに存在し、犯罪を犯してしまう人間になるまでには、今の自分の想像を遥かに超えた境遇が組み合わさった結果だ。その過程を私が詳細に想像し得ないことは、私自身が、さまざまな境遇が組み合わさって今私という人間が犯罪を犯さずに生きている過程が他人から詳細に想像され得ないことと同じなのだ。
だからといって犯していい犯罪があるわけではない。
不幸な事件が起きないためにも、「なぜこんな事件が起きてしまったのか」と考えるときに、自分の中にある言葉だけで片付けてはいけないということを、この本を読んで強く思った。
そして、親と自分の境遇に対する感謝の気持ちががじわじわと湧いてきた。たまたま今日も平穏に過ごせている理由は、当たり前のことではなく、自分の意志など及ばない部分に大きくあるのだと思う。
このことはいつも胸に刻んでおきたい。
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