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第16回「オンライン哲学カフェ参加録~お金編・その3~」

 第14回・第15回の2回にわたって、1月8日(土)の夜に行ったオンライン哲学カフェ「お金」の振り返りを書いてきました。哲学カフェでは、

▶お金と幸せの関係はどうなっているのか?
▶お金に振り回されやすい人はどんな人か?
▶良いお金と悪いお金の区別はどこから生まれてくるのだろうか?

 といった幾つかのテーマについて考えました。そこから、

▶お金はものやサービスを買うための手段であり、何のためにいくら使うかを考えることが重要である。
▶しかし、お金は純粋に手段であることによって、可能性という他のもの・サービスにはない特別な価値を帯びる。
▶購買手段としてのお金を闇雲に増やす人はお金に振り回されていると言えるが、どのような人がお金に振り回されているかを具体的に言い当てるのは難しい。
▶一部の人だけが使っている方法でお金を得ている人たちは、決められた制度の枠内で持てる知識を使ってお金を得ているだけであっても、ズルい人・お金に汚い人と思われることがある。

 といったことが見えてきました(詳しくは以下の記事をご覧ください)。

 ところで、振り返りを書くに当たり、僕は最初に、これは哲学カフェの内容を順番に・網羅的に書き出すものではなく、僕自身の思考整理を兼ねて内容を取捨選択し、順番を組み替えながら書き進めるものだと言いました。しかし、「あのやり取りは良かった」「このやり取りも面白かった」という感想に引きずられた結果、振り返りはかなりの内容を盛り込んだ長大なものになってしまいました。そして、あまりに長く書き過ぎたために、今回の哲学カフェで得た特に大事な気付きは何だったのかということが、自分でも分からなくなってしまいました。

 このままでは終われません。そこでこの記事を使って、今回の哲学カフェ、或いはその振り返り作業を通じて得た大きな学びについて書こうと思います。

     ◇

 今回の哲学カフェを振り返って、お金に関する学びで一番大きかったなあと思うのは、お金とはものやサービスを買うための手段であって、使い道や必要な額を考えることが大事であるという考え方に触れられたことでした。というのも、僕がこれまでお金について最も大事にしていた考え方はこれではなかったからです。

 とにかく月々の収支がプラスになるようにする。マイナスになる場合でもなるべくその額が小さくなるようにする。

 これが僕が一番こだわっていたことでした。無計画にお金を使って一文無しになってしまっては生活が立ち行かなくなりますから、ある程度手元にお金が残るようにするのは大切なことです。ただ、月々の収支をプラスにすることに厳密にこだわらなくても良かったのではないかという気がします。

 お金の使い道を考慮せずに収支ばかり気にする考え方は、とにかくお金を増やそうとする考えに辿り着きます。では、手元のお金を増やし続けることにどんな意味や目的があるのかというと、そういうものは特にないのです。ただ、減ってはいけない、減ってはいけないという思いに囚われていたに過ぎません。

 その考えは一度見直しも良いのではないかと思います。やりたいことは何か、それにはお金が幾らかかるのか(そもそもお金が必要なのか)。手持ちのお金が減ったとして、それは大きく困るほどのものなのか。そんな視点を持って、お金の使い方を考えていけると良いのではないかと思います。

     ◇

 ところで、哲学カフェの振り返りを通じて気付いたことの中には、お金とは直接関係がないけれども大事なことがありました。それは、僕は可能性というものに執着していたのではないかということです。

 振り返りその1(第14回)の中で、お金の重要な特徴は可能性を示す点にあるという話をしました。お金はものやサービスを買うための手段に過ぎませんが、そのために、お金があると色んなものが手に入るという可能性を示すものになります。車や家や宝石にこの性格はありません。どれも使い道が限られているからです。仮にそれらを手放して別のものやサービスを手に入れようと思ったら、売ってお金を手にしなければなりません。つまり、もの自体の価値を持たず購買手段に過ぎないお金だけが、それを使って様々なものを買える可能性を示すのです。そして、可能性を大きくすることに人はしばしば価値を見出します。これがお金の増減に一喜一憂する理由の1つになり得ることは、該当の記事で述べた通りです。

 この話を書いている間、僕自身、可能性を大きくすることにかなりの価値を見出していたのだなあということをしみじみと感じていました。実を言うと、当初は「だから僕はお金を増やそうとしてしまうのだ」とさえ思っていました。その後、お金に関してはあくまで収支バランスにこだわっていただけだと考え直したのですが、それでも、僕が可能性というものに酔いしれやすい人間であることは変わらないように思います。

可能性があるということは、色んなことができるということです。欲しいものを手に入れられたり、やりたいことができたり、なりたいものになれたりします。それらは実現していません。しかし、実現していないからこそ、どれでも実現する可能性があるのです別の言葉を使えば、ありったけ夢を見ていられるわけです

 しかし、現実に全てが手に入るわけではありません。欲しいものは一度に幾らでも思い浮かべることができますが、現実に一度に手にできるものは数が限られています。やりたいことも同じです。妄想は無限大に広げられますが、一度にできることは1つきりです。つまり、何かを実現しようとすることは、他のものが実現する可能性を切り捨てることでもあるのです。更に言うと、実現しようとしても実現しないこともあります。選考に落ちて憧れの職業に就けない場合などがそうでしょう。もちろん再度チャレンジすることもできますが、夢が砕けることもあり得ます。

 僕はそうやって可能性が減っていくことを恐れていたような気がします。

 かねてより、何者かになりたい、一角の人物になりたいという思いが、僕の中にはずっと燻ぶっていました。しかし、どういう者になりたいのか、どんな分野・物事で大人物になりたいのかという明確なプランはありませんでした。おそらく僕は、大人物になれる可能性を見ることに酔いしれていたのだと思います。そして、現実に何らかの行動を取ることよりも、夢を見続けることの方を選んだのだろうと思います。何者かになりたいと思っていたはずなのに、その実何者にもなる気がなかったのです。

 幸い、今の僕には目標があります。漫然と流れ去っていく様々な物事に意味を見出したい。そうして自分の生活を豊かなものにしていきたい。ささやかですが確かな目標です。そのために何が必要か、自分なりにヒントを見つけて、掴み取っていきたいと思っています。そこで怯まないこと、豊かさを夢見ながら現実に不満を垂れ流し続けないことが、いま自分には一番大切なのだろうと思います。

     ◇

 以上、哲学カフェとその振り返りを通じて僕が学び取ったことをまとめました。後半は殆どお金と関係のない話でしたが、書き留めずにはいられなかったので言葉にしてみました。

 これで、オンライン哲学カフェ「お金」の振り返りはおしまいです。自分でも想像だにしなかったような長い記事になりました。最後まで読んでくださった皆さまに御礼申し上げます。ありがとうございました!

(1月16日)

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