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兄が本格的なサイクリングに挑む話

 社会人兄妹2人で行く、鳥取・米子を巡る一泊二日の旅行の記録、最終回をお送りします。いよいよ、妹の本来の目的だったサイクリングの話になります。

 今回のサイクリングは、米子・皆生温泉~境港~美保関を往復するという内容でした。皆生温泉から境港までは弓ヶ浜の中に整備されたサイクリングロードを、境港から美保関までは一般道を通ります。走行距離はおよそ5、60㎞です。

 サイクリング初心者の僕は、いきなり長い距離に挑戦するのが不安だったので、旅に出る段階では、境港まで行って適当に市街を散策し、元来た道を引き返すというプランを立てていました。しかし、妹がこれを却下します。

「平地30㎞なんて散歩みたいなもんやで」

 そう言って彼女は美保関を目的地に指定し、走行距離を倍にしてしまったのです。この時ばかりは、妹が鬼に思えました。

 もっとも、結局のところ僕は美保関までの往復コースをこなし、本格的なサイクリングデビューを果たすことになりました。では、その道中のことを話していきましょう。

     ◇

 泊まったゲストハウス「ラトリエ」を出たのは朝9時のことだった。車に乗ること10分で、皆生温泉の入口にある米子市観光センターに着く。ここで僕は自転車を借り、その間に妹は愛車を組み立てる。

 米子市観光センターは、近隣の観光案内全般やお土産物の販売を行っている施設であるが、レンタサイクルにも力を入れているようで、かなりの数・種類の自転車が取り揃えられていた。僕はその中からスタンダードそうなクロスバイクをレンタルした。

 準備が整い、サイクリングに出発したのは、10時前のことだった。

 観光センター前の1本道を進むと、早速海岸線に出る。そこから境港までは、海岸線に沿ったサイクリングロードが続く。

 これがとても気持ちの良い道だった。

 白い砂浜と青い海がどこまでも続いている。そればかりだと単調だが、時折海辺から離れて、松林の間を抜けたり、小さな船着場を迂回したり、国道沿いの広い歩道に出たりする。そうやってアクセントを付けながら、道は再び海のそばへ出る。その時の、突然視界が開け、一面の砂浜と海が広がる光景は、何度見ても心躍るほど美しかった。

 時折振り返ると、弓ヶ浜の名の通り大きく弧を描く海岸線の彼方に、大山を望むことができた。広い裾野をもって高く聳える大山は、実に雄大であった。帰りになるとずっとあの山を見ることができるのだと思うと、嬉しい気持ちになった。

 僕と妹はところどころで自転車を停め、写真を撮ったり、動画を撮ったりした。サイクリング経験の豊富な妹は、風景を見ただけで絵のイメージが出来上がるのか、動画を撮る場所を指定し、さらに「私が走り抜けたら、カメラを海の方に振って」など、色々指示を出してきた。後で動画を見せたところ、期待通りだったらしく喜んでくれた。

 妹が途中でアクティビティの記録を取るアプリをオンにしたので、僕も習って、スマートウォッチをアクティビティモードにした。ランニングの記録にばかり使っていたので、他のモードを使用するのは初めてだった。

 バイクモードでは、ラップや心拍数の他に、その時の速度が表示された。スピードは基本的に時速20㎞を超えていた。それほど必死に漕いでいる感覚はないのに、家の自転車よりもずっと速くスイスイ進んでいく。これがスポーツバイクかと、僕は感心した。

     ◇

 およそ1時間余りで、境港にある夢みなとタワーに着いた。弓ヶ浜のサイクリングロードは、ここが終点であった。

 僕らは一旦自転車を置き、タワーの中に入った。屋内はクーラーが効いていて、海辺の道とは別世界のようだった。空いているベンチに座り、小腹が空いた時用に持ってきたコーヒーラスクを食べる。それから、「これ喉渇くわ」と言って、スポーツドリンクをぐいと飲んだ。

「意外といけるでしょ」と妹が言った。僕があまりに距離に対する不安を口にするので、一応ここで余力を確認することになっていたのだ。

「そうやね」と僕は言った。実際、疲れは殆ど感じていなかった。

「これですぐ引き返したら、物足りんと思わん?」妹が続けて訊く。

「確かに」と僕は言った。

     ◇

 20分ほど休憩した後、ドリンクを買い足し、再び自転車に跨る。そうして僕らは美保関に向けて出発した。

 境港から美保関へ向かう際の、最初にして最大の難関は、境港と島根半島とを結ぶ境水道大橋である。この橋は海面からの高さがかなりあるため、坂道が長い。おまけに自転車走行用の幅は設けられていないので、僕らは細い歩道に立って自転車を押して歩かねばならなかった。

 僕は高所恐怖症なので、何度も足が竦みそうになった。

「これちょっと怖いわ」と思わずこぼすと、

「言わんといてや、意識してなかったのに」と文句を言われた。妹は強いのか弱いのか、時々わからなくなることがある。

 橋を渡って島根半島側に降り立つと、あとは海岸沿いの1本道をひた走るだけだった。冒頭にも書いたように、ここは一般道であり、やはり自転車向けの道にはなっていない。だが、車通りはそれほどなく、注意して走行すればさほど危ない道ではなかった。

 弓ヶ浜のサイクリングコースは適度に海から離れることがあったが、こちらは本当に海べりの道だった。もっとも、海の見え方は一本調子というわけではなかった。半島の突端部が近付くにつれ、海峡から外海へと趣を変じていたし、道が適度にくねくねしているので、曲がる度に少しずつ雰囲気が変わった。「こういう道良いわぁ」と、妹が呟くのが聞こえた。

 夢みなとタワーを出てから1時間後、僕らは美保神社に着いた。漁港になっている小さな入り江に面した神社で、えびす様の総本宮と書かれていた。境内を進むと、森に囲まれた場所に、広大な本殿が建っていた。神社に来て本殿の大きさに圧倒されるというのは滅多にない経験だった。

     ◇

 お参りを済ませた後、妹は半島の本当の突端にある灯台まで行きたいと言った。僕はそれには付いて行かないことにした。美保神社に向かう途中、少し足がきつくなっているのを感じたからだ。妹もそこは無理強いせず、「じゃあまた後で」と言って走り出した。

 僕は鳥居の脇から伸びている青石畳の通りを暫く散策した後、元の場所に引き返し、目の前のカフェに入った。柑橘系のジュースが飲みたい気分だったが、なぜか急に思い直してアイスカフェオレを頼んだ。店内には他に何組かのお客の姿があり、彼らは皆ランチを楽しんでいるらしかった。

 普段なら本を読んで時間を潰すのだが、あいにくこの時は荷物になると思って、本を車に置いていた。僕はすっかり暇を持て余し、しばしスマホをいじった後、カフェを出てしまった。そして海の写真を撮ったり、土産物屋で涼んだりしながら、妹の帰りを待った。

 1時間ほどして妹は帰ってきた。彼女に頼まれて入り江をバックに写真を撮った後、僕らは境港へと引き返し始めた。

     ◇

 美保神社から境港に戻るまでは、全行程の中で最もストイックな区間だったと言っていいと思う。夫婦岩のあるところや、海が広く見渡せるところで2、3度止まって写真を撮ったものの、それ以外の間はひたすら自転車を漕ぎ続けていた。

 境水道大橋まで戻ってきたところで、妹が行けるところまで自転車を漕いで行きたいと言い出した。今後ヒルクライムにも挑戦したいという彼女は、ここで坂道に挑んでおきたいと思ったらしい。

 「無理せず押してきていいから」と言いながら、妹が坂道に入っていく。それを見ていると、僕も行けるところまで行ってやろうという気になった。慣れないシフトチェンジを試みつつ、坂道を上っていく。暫くは何とかなった。が、だんだん足がパンパンになった。後から聞いたところによると、斜度はそれほどきつくなかったらしい。が、島根半島側の橋の入口はぐるっと回り込んでいて、距離が長くなっていた。

 結局坂道の半分ちょっとを過ぎたところで降りてしまい、自転車を押して頂上まで向かった。先に着いた妹は、写真を撮りながら僕の到着を待っていた。

 橋を下ると、あとは平坦な道が続いた。そうして14時過ぎに、僕らは夢みなとタワーまで帰ってきた。

 タワーの向かいにある食堂に入り、遅い昼食を摂った。2人揃って海鮮丼を注文する。前日から心に決めていた、待ちに待ったメニューだった。大ぶりのネタたっぷりの贅沢な一品だった。特にヒラマサと思しき白身魚が、脂が乗っていてとろけるように美味しかった。

     ◇

 時刻は14時45分を回った。いよいよ、皆生温泉に向けて最後の一区間が始まった。

 弓ヶ浜のサイクリングコースに入り、海辺に出ると、またしても白い砂と青い海が眼前に広がった。その遥か彼方に、広大な裾野を持つ大山が悠然と姿を現わしていた。僕らは改めて、この道の景観の美しさ、そして快適さを思いながら自転車を漕いだ。

 途中で一度、妹に頼まれて動画を撮ったが、それ以外の場所で止まることは殆どなかった。景色に癒されながら、余計なことは考えず、ただ前に進んでいく。

「昨日砂丘はデトックスやって言ったやん。サイクリングも同じやねん」

 昼食の途中、妹がそんなことをいった。

「初めて本格的にサイクリングした時、心に溜まってたものがスッと落ちていく感じがして、それで私自転車にハマったところあるんよね」

 これからゴールが近付くと、もう後ちょっとで終わるというのが、どんどん悲しくなってくる——そんな自分の言葉を証明するかのように、妹は時折切ない声を出した。皆生温泉まであと5㎞、あと4㎞。ここは行きに動画を撮った船着場。これは最初に通り抜けた松林。

 僕の胸に、その淋しさは訪れなかった。ただ、疲労が蓄積していく中、時速20㎞というペースを維持したままゴールに辿り着くことだけを考えていた。僕にとって、サイクリングはデトックスではなく、ジョギングと同様のアクティビティだった。今の状態をキープすることだけを考え、ゴールを目指す。距離表示も、元見た景色も、ゴールが近付いているという目印として捉えていた。

 同時に、どうして妹はサイクリングが終わることに淋しさを覚えるのに、僕はそうならないのかと疑問に思った。そして、それはきっと2人の生き方におけるオンとオフの落差の大きさや、先の時間に対する視野の広さの違いに起因するのだろうと考えた。

 僕はオンとオフの落差があまりない。旅に出て非日常を満喫しようと思っても、目的地についてみると、日常から抜け出せていないような気がする。この身を引っ提げて歩く限り続いていく平坦な世界の中で、僕は目の前に見えるものだけを見る。旅が終わった後どうなるのかということを考えず、ただ闇雲に進んでいく。

 妹はきっと違う。仕事が中心の日常と、仕事から解放された非日常を明確に区別し、非日常に没入する。けれどその意識が、目の前の非日常に固執することはない。彼女の眼は、非日常が終わった後に再び始まる日常まで見通している。だから、サイクリングが終わった後、何が待ち受けているのか、自分がどうなるのかがはっきり意識される。その意識が、終わりを際立たせ、悲しみを湧き上がらせるのだろう、と。

 自転車を漕いでいる間、僕は確かに今書いたようなことを思っていた。だが、これを書いている今、僕の意識は少し変わっている。皆生温泉まで残り僅かという場面を思い返すと、そこにありありと旅の終わりの気配が感じられるのだ。

 はあはあと上がる息。自転車を漕ぐ足の張り。流れ去っていく路面。朝に見た松林、船着場、橋。白い砂、青い海。夏の潤むような暑さ。聳え立つ大山。

 その全てが、言い知れぬ哀愁を帯びて浮かび上がる。そこには確かに旅の終わりが立ち込めている。サイクリングの終わりだけではない。鳥取砂丘からラトリエを経てサイクリングに至るまでの、充実した2日間の終わりが。
 なるほど、妹が言っていたのはこういうことだったのかと、僕は今更ながらに思う。

 皆生温泉に戻り着いたのは、15時45分のことだった。僕は観光センターに自転車を返しに行き、妹は自転車をバラしにかかった。作業が終わったところで、僕らは温泉に向かい、一風呂浴びた。

 そして、17時を少し回る頃、関西に戻るべく車を出した。

     ◇

 鳥取・米子を巡る一泊二日の旅の記録、サイクリング編をお送りいたしました。改めて振り返ってみると、素晴らしい景色にも恵まれ、本当に気持ちの良いサイクリングだったと思います。終盤でも書いたように、やっている間(特に後半)はアクティビティという感覚でしたが、後から振り返ってみると、道中で見た景色や、自転車でなければ味わえないスピード感などが思い出され、とても良い経験をしたなという気持ちになりました。

 さて、これを持ちまして、一泊二日の旅の記録も完結となります。長い長い旅行記になりました。お付き合いいただいた皆さまに感謝申し上げます。

(第190回 8月10日)

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