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【読書】『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』【差別、格差、分断について考える】

 とはいえ、まるで社会の分断を写したような事件について聞かされるたび、差別や格差で複雑化したトリッキーな友人関係について相談されるたび、わたしは彼の悩みについて何の答えも持っていないことに気づかされるのだった。

 差別。格差。そして、それに付随して起こる人間関係の悪化。行きつくところは社会の分断。
 人間性を疑う人と戦っててもキリがないので、絡まれないように注意して、距離を取ればいいんだけど。
 これは個人の処世術としては有効かもしれないが、社会の分断につながってしまうのは、問題がある。
 差別、格差、社会の分断について、考えながら読んでいた。

「頭が悪い」と「無知」は違う

子どもがこういう時代錯誤なことを言うときは、たいていそう言っている大人が周りにいる、というのがわたしの経験則だ。
「無知なんだよ。誰かがそう言っているのを聞いて、大人はそういうことを言うんだと思って真似しているだけ」
「つまり、バカなの?」
 忌々しそうに息子が言った。
「いや、頭が悪いってことと無知ってことは違うから。知らないことは、知るときが来れば、その人は無知ではなくなる」

 ダニエルくんは、差別発言が多いのだが、息子さんとミュージカルで共演したことで仲良くなった。以降、息子さんが彼の差別発言を口うるさく注意するので、あまりどぎついことは言わなくなったそうだ。
 これは私の体験だが、20年ほど前に中国人の男性アルバイトさんがいた。彼は外国人であることを利用して、仕事をサボろうとする。
「ゴミ捨ててきて」と言うと
→ 「ワタシ、ニホンゴワカリマセン」
「いいから、捨ててこい!」と怒鳴ると
→ スゴスゴと捨てに行く
 で、帰りに、行きつけの居酒屋に寄るのだが、当時、中国人の女性アルバイトさんがいた。彼女はまじめに働いていた。
 その後、何人も外国の方と働いたが、働く人は働くし、サボる人はサボる。
 考えるまでもなく、日本人だって、性別も、年齢も、肩書も、何が違っていようと、働く人は働くし、サボる人はサボる。
 働くとサボるのあいだに、国籍も民族も宗教も関係はない。
 そういうことを体験できれば、「無知」ではなくなる。
 ダニエルくんも、そういう体験ができているのだから、きっと、変わるだろう。
 しかし、そのダニエルくんに妙なことを吹き込む大人がいるのは問題だ。
 大人は経験を積んでいる。そこから何も学ばないのは、「頭が悪い」のだ。

「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

 たしかに、多様性はめんどくさい。
 しかし、
「そんな美味しい物があったのか!」
「そんな技があったのか!」
と美味しい話や、巧みな技を教えてくれるのは、多様性だ。
 いっそ、生まれも育ちも違った方が、まったく別の体験をしているから、話をしていて面白い。
 まったく同じような人生を送っていたら、つまらなくなる。100人いたら、100種類の人生を送っているから、そこから学びがある。
 そして、100種類の人生を聞いていたら、自分もそうしてみたいと思う人生も、自分にフィットする人生も、聞くことができる。
 ムダに差別をしてはならない。自分の無知をなくすために。

人を傷つけるようなことをしない

「あの子は言動がまずいから注意して見ていましょう」みたいなコンセンサスが教員たちの間でできあがっているだろうということは、わたしも保育士として働いたことがあるのでだいたい想像がつくが、こうした大人の態度の変化を子どもたちは見逃さない。ダニエルには公式に「正しくない人認定」が下りたのだと思い込み、いくらバッシングしてもいい対象になったと判断して、これ見よがしに彼を無視したり、いじめを始めた。
「ダニエルからひどいことを言われた黒人の子とか、坂の上の公営団地に住んでいる子たちとかは、いじめに参加してない。やっているのはみんな、何も言われたことも、されたこともない、関係ない子たちだよ。それが一番気持ち悪い

 たしかに、気持ち悪い。
 嫌いなら嫌いで距離を置けばいい。なんで、わざわざ関係のない人を攻撃しなければならないのだろう。
 実害があったら話は別だが、まったく関係のない人をバッシングするような人の方が、気持ちが悪い。

「……人間って、よってたかって人をいじめるのが好きだからね」
「僕は、人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。……罰するのが好きなんだ」

 経験上、他人を攻撃する人は、自分のストレスを発散したいだけか、自信がなくて人をけなすことしかできない人か、どちらかのパターンが多い。
 こういう人は、「正義の仮面」をかぶって人を攻撃する。

「『あなたたちの中で罪を犯したことのない者だけが、この女に石を投げなさい』と新約聖書のヨハネ福音書でイエスも言っているしね」

 『聖書』はいいことを言う。
 こういうことが書いてあるから、宗教はありがたいのです。

「差別はいけないと教えることが大事なのはもちろんなんだけど、あの先生はちょっと違ってた。どの差別がいけない、っていう前に、人を傷つけることはどんなことでもよくないっていつも言っていた。だから2人を平等に叱ったんだと思う」

 「注意する、警告する、教育する」ということと、「人を傷つける」ことは、まったく違う。
 「人を傷つける」ようなことをして、幸せな人生を送れるとは思えない。

「分断」と「アイデンティティ」

「この学校のサイトには、『ブリティッシュ・ヴァリュー(英国的価値観)の推進』をポリシーにしていると書かれていますね。近年は『ブリティッシュ・ヴァリュー』ではなく、『ヨーロピアン・ヴァリュー(欧州的価値観)』を打ち出すのが教育機関の姿勢として好ましいと言われています。どう思われますか?」
 そうわたしが聞くと、校長はまっすぐにわたしの目を見て答えた。
「どうしてどっちかじゃないといけないんですかね?」
「は?」
「どうして『ブリティッシュ』か『ヨーロピアン』のどちらかを選ばなくてはいけないのでしょう。僕は両方あっていいと思います。最近は『ヨーロピアン・ヴァリュー』を謳うところが多いので、うちは『ブリティッシュ』で行きます。バランスを取るために」
 と言って彼はからからと笑った。
「無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」
 分断とは、そのどれか一つを他者の身にまとわせ、自分のほうが上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで身にまとうときに起こるものなのかもしれない、と思った。

 わたし自身は、
・働くか、サボるか
・儲かるか、儲からないか
・一緒にいて、楽しいか、つまらないか
ぐらいのことしか、気に留めていない。
 とはいっても、「サボる人を嫌悪する」「他人を攻撃する人を嫌悪する」というのが、差別か、それとも選択の結果か。
 「彼のことを理解して、行き過ぎた言動があれば注意する。その方が効果があると思うな」という「大人の発言」があったな、と思い出す。

しかも、同じように差別された経験をもっていればもっているだけ、無意識のうちにもこの「仲間感」は強くなる。人種差別というものは、他人に嫌な思いをさせたり、悲しい思いをさせるものだが、それだけではない。「チンキー」とか「ニーハオ」とかレッテルを貼はることで、貼られた人たちを特定のグループに所属している気分にさせ、怒りや「仲間感」で帰属意識を強め、社会を分裂させることにも繫つながるものなのだ。

 差別、格差は、社会の分断につながる。
 被害者はもちろん不幸だが、加害者も不幸になる。

「あり得ないことってのは、そんなに簡単に起きるわけじゃないから」
 確かに、わたしが中学生たちに「春巻きババア」とか「中国に帰れ」とか言われていたのは5、6年前ぐらいまでの話だが、ああいうことが数年で根こそぎ姿を消すわけがない。
けれども人の中にある意識や感情というものは、あの茂みのようにいっぺんに刈ってしまえるものではない。「表出する」ということと「存在する」ということはまた別物なのだから。

 人間、そうそう変われるものではない。とくに、「感情」は頭で分かっているだけにやっかいだ。
 しかし、「人を傷つける」ようなことをしないことだ。
 人間だから、ついうっかり失敗して、やってしまうかもしれないが、その時は、謝罪して反省して修正すればいいことだ。
 意味のない差別をして、人を傷つけてはならない。いたずらに社会の分断を招いてはならない。
 分断された社会に生きていたら、自分自身が幸せになれないではないか。
 自分自身の幸せにのために、社会の分断を招かないように、意味のない差別をして、人を傷つけてはならない。

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