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知らないふり.../ショートショート



知らないふりをしている。
あなたの瞳に映るわたしは、
多分彼女の代わりなんだということを。
知らないふりってこと、気付いているのだろうか。


柔らかに微笑みながら、窓の外を眺めるあなたの隣に
何が見えるの、と訊ねながらそっと腰を下ろす。
ほらあそこに、赤い蕾が見えるだろう。
指差す先には、ポツンと遠慮がちに膨らんだ
小さな赤い点にも見える蕾が一つ。
少し早く出てきてしまったんだな、あいつは、まだ寒いのに。
そう言いながら、微かに湯気の立つお茶を口に含む。

お、茶葉変えたのか?高級な味がするなぁ。
笑いながら、また一口。
苦手な緑茶を一緒に飲めるように、友達から聞いた
お湯の温度は少し落ち着かせてから、
ちょっと高いお茶の葉で、ゆっくり淹れるといいのよ。
という言葉通りにしてみたら、苦みの中にも甘みが広がって
練習している数日の間で、何の抵抗もなく飲めるようになった。
なんなら近所のスーパーの特売品だって、
高級"風"な味を出せる自信があるほど、淹れ方もマスターした。

あの蕾、あとどのくらい大きくなったら花が咲くのかしらね。
いやあ、あの花は蕾のままが一番きれいなんだがな、
すぐに花が開くほどに大きくなるから、毎日見ていないと。
ゴクゴクと音を立てて湯呑を大きく傾けると、
最後の一滴まで吸い込む勢いで、ズズズッと飲み干した。
満足げに息を吐く姿を横目に、わたしも湯呑を傾けお茶を口に含む。
うん、ちゃんと甘さがある。

そうだ、サチエさん、
彼がわたしに視線を移す。
今年はどこへ行こうかね、息子らも手が離れたし、遠出でもしてみようか。
そうね、行ったことがない場所がいいかしらね。
何日か宿をとって、のんびりしようか、サチエさんも疲れただろう。



彼の目には、わたしと同じ歳の頃の、祖母が見えている。
明日には、わたしはまた別の誰かに見えているかもしれない。
わたしを"サチエさん"と呼ぶ時の祖父は、とても穏やかで柔らかく話す。
祖母はとても愛されていたのだろう。
そしてきっと、祖父もとても愛されていたのだ。

あと何度、彼から"サチエさん"という言葉を聞けるだろう。何度、わたしに向けて発してくれるだろう。
どうか彼が、眠りから醒めなくなるまで。
それまでずっと、大好きな祖母、
サチエさんのままで彼の瞳に映っていてほしい。









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