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愛弟子との約束

こんにちは。
スクラムヒューマンパワー代表 日原 達仁です。

私の記事を読んでいただいて、ありがとうございます。

父の三回忌の際、叔父が唐突に
「達仁、兄貴は高校時代野球をやっていたんだよ!」と話し始めました。
私はすかさず、「ラグビーじゃなくて?」と答えます。
「ラグビーもやっていたけど、
   甲府工業に入学してすぐは野球部でピッチャーだったんだ」と、
私の知らない父の姿を話してくれました。

なんでもピッチャーをやっていたけれど、フォームが大きかったため、
ラグビー部から声が掛かりラグビーを始めたとか。
「しかも兄貴は当時番長で、名が通っていたんだ!」
番長はさておき、野球をやっていたという話は
初めて聞いたのでとても驚きました。

私には、愛弟子と呼ぶべき存在がいます。

彼もまた、甲府工業で野球部を経てラグビーの道へ進みました。
甲府工業では電気科へ進みましたが、
私の母校でもあるリキの出身中学ではやんちゃ坊主の呼び声も高く、
ご両親の手を焼かせていました。
時代は平成だというのに、いまだ昭和の匂いを漂わせています。
私としては、苦手というよりむしろ得意分野、
ワクワクしながら育成に取り組む、やり甲斐のある人材でした(笑)。

高校3年時には甲府工業の中心選手、
ポジションは私と同じ左プロップです。
私が監督を務めた会社では製造業を営んでいます。
工場では電気科は引く手あまた、
早速甲府工業のラグビー部顧問に連絡を取ります。
顧問の先生もラグビー部の先輩、後輩の仲なので、
ぶっちゃけた素行を教えてくれます。

・・・うん。素行、悪い。
停学になること数回、ラグビーの練習もだましだましです。
ちゃんと務められるのか、正直不安になりました。

しかし、最初に彼に会ったときの、
可愛げのある素直な笑顔に、一瞬で私はトリコです。
ハートを撃ち抜かれました。
「うちの会社に是非、来てほしい!社会人になっても、
    ラグビーで大いに暴れてくれ!」と、期待を込めて伝えました。
彼の心にも一寸の迷いもなく、100%このチームを希望、
ほどなく待望の新人として入社してくれました。

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時は東日本大震災の直後、
もともと運動神経は抜群で、ダンスも踊れるプロップです。
入社後の新人研修では、持ち前の人懐こさを発揮し、
同期入社の大卒ともすぐに意気投合していました。
休憩中に喫煙室で煙草をふかす18歳、しかもショートホープです。
今では怒られるなんてものでは済まないですが、
それが許された時代でした。

新人研修では、2日間宿泊での研修があります。
夕食後はコンビニに買い出しに行き、
畳の部屋で親睦を深める飲み会が行われます。
愛弟子はあまりにもたくさんのお酒を並べるので、
「未成年、誰がこんなに飲むんだよ!」と私は苦笑いです。
「日原さん 今夜はとことん呑みましょう!」と
18歳に次から次へとお酌され、様々な話をしました。
20歳離れていても、同じ気持ちを持ったラグビー仲間、話は尽きません。
最後は私が潰されてノックダウンです。

愛弟子の名前は「村松力」。
皆にリキと呼ばれ、誰からも愛される愛嬌のある若者でした。
私は彼を育てることを、ラグビー監督としての最終章だと考えていました。
彼を育て上げ、指導者的立場からは引退を考えていました。

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伝え聞く悪ガキイメージとは全く逆で、
リキの仕事ぶりは素晴らしいものでした。
もともと地頭が良いのでしょう。電気系統の仕事では、
2年目から責任ある仕事を任され、周囲から大いに期待されていました。
ラグビーでも、運動神経が良く筋力もあり、
これはいい選手になるぞ!と誰もが思いました。

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春のオープン戦1本目の試合のことです。
リキは活躍していた矢先、大怪我を負いました
私の17年の監督人生で、初めての大怪我です。
首の骨を骨折してしまいました。
幸いにも神経を傷つけることは無く、
3か月間頭部の骨をボルトで固定します。
絶対安静、治療に専念してくださいと、主治医と話しました。

しかし、まだ若い選手にはつらい、本当につらい診断が下されました。
「再びラグビーをすることはできません」
私は目の前が真っ暗になりました。
そのことは本人も承知しているのかと、私は主治医に詰め寄ります。
主治医の先生も辛そうに、本人にも伝えたことを聞かせてくれました。

20歳。これからのラグビー人生も期待されていた矢先です。
グラウンドの練習も、
ウエイトトレーニングもアクティブにこなしていました。
監督としての最後の育成選手も、夢半ばに終わってしまう。
私も辛いですが、しかしリキの辛さは想像もできないほどです。
涙が溢れて止まりませんでした。

3ヶ月の治療を終え、リキは職場に復帰しました。
朝一番に、
「ラグビーはできなくなってしまいましたけど、
   ラグビー部にはいさせてほしい」と、
総務の事務所まで挨拶にきました。
リキの申し出に、大粒の涙と共に絞り出された思いに、
私ももらい泣きしたことを今でも覚えています。

そのシーズン、リキは若きコーチとしてラグビーに積極的に関わり、
ムードメーカーとしてチームを盛り上げました。
トレーナーの仕事にも興味を持ち、マッサージの技術も学びました。
彼なりに、ラグビーと関わる方法を模索し、努力していたのだと思います。

それから1年後、5月の上旬のことです。
リキとお酒を呑む機会がありました。帰り際、リキは
「日原さん、やっぱり俺、ラグビーがしたいです」と、
涙を堪えながら訴えました。私はどうすることもできず、
「必ずラグビーできるようになるから、もうしばらくの辛抱だから!」と、
一緒に涙を流しました。

そして6月29日未明のことです。
全国ニュースになるような大きな交通事故でした。
リキは天国へと旅立ってしまいました。
そんなことが・・・と誰もが呆然としました。

「スクラムヒューマンパワー」という会社名は、
ラグビーで学んだ知識、経験、育成方法を社会に伝えたい、
スクラムで味わった大変さややり甲斐は、
人材育成に貢献できるのではないかという意味を込めて付けました。

そして「POWER」、「力」、そうリキです。
最後に彼と交わした「ラグビーがしたい」という約束を果たしたい。
そんな思いで事業を立ち上げました。
私の背中、会社のコンテクスト(背景)には、リキがいるんです。

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リキ「龍」、沢山の仲間が彼の突然の旅立ちを悲しみ、
お別れに集まりました。私はすでに監督を退任し、
ゼネラルマネージャーとしてチームに関わっていました。
新しい監督とエントランスでリキのことを話していると、
黒い蜻蛉が私たちの前に止まりました。
しばらく私たちを見て、そしてまた玄関から外へ飛んでいきました。

リキがラグビーでやりたかったことを、
私はこのスクラムヒューマンパワーという会社で挑戦したいのです。
私の残りの人生を掛けて、リキと一緒に挑戦したい。
龍のごとく、昇っていきたいのです。
そんな思いで、スクラムヒューマンパワーは設立しました。
リキが天に旅立ち、今年で7年が経ちます。
彼のような人材を、育てていきたいです。


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