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 黒田長政の真骨頂

 どうも、人というのは、地位が偉くなったりすると、周りに耳ざわりの良いことを言う、イエスマンばかり、集まるらしい。
 豊臣秀吉は、天下取った後は、黒田官兵衛、細川幽斎を遠ざけた。
 その点、徳川家康は、晩年まで、
酒井忠次などの苦い意見をいう部下のことを聞き、諫言をいう部下のいうことも、良く聞いた。
 それが、徳川家康を天下人ならしめた
のであろう。

黒田官兵衛の息子、黒田長政も家臣の意見に耳をかたむけていた。
 この長政は、関ヶ原の戦いで、石田三成隊と戦って戦功をあげただけでなく、
交渉役として、松尾山の小早川秀秋の
寝返りなどや、南宮山の吉川広家の「不戦」の約束をとりつけるなどの暗躍もしていて、戦後の論功行賞で、それまでの豊前中津十八万石から、筑前名島五十ニ万石への栄転をかちとっている。

 居城を名島城🏯から福岡城🏯に移したとき、福岡城内に一つの部屋を用意させ、月のうち三日、日を決めて、
長政自身がその部屋に詰めていたのである。
 注目されるのは、そのとき、「何かいいたい者がいれば、途中を通さなくていいから、その部屋に来い。直接話を聞こう」といっている。城中の者、武士だけに限られるが、これはすごいことらしい。当時は、封建的身分制度の時代なので、足軽が長政に言いたいことがあっても、ふつうは、届かない。
 その現場からの生の声を聞こうとしたことに、黒田長政の真骨頂がある。
 
 どんなに偉くなっても、人の話をきくことは、耳が痛くても、自分のためになるものだ。

 上記の記述は、小和田哲男先生の見解を参考にしました。

 

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