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この世界の有り様と仕組みについて〜公正世界?意地悪な世界?

似たようなことを考えたことがある人は大勢いると思います。
俺はこれを10代から、今40歳になってもよく考えます。
それだけそうなるキッカケが複数あり、俺には重要だったからです。
2つは話しましょう。

【キッカケ①離人症】

通常、皆さんも普段は自身が存在しているという感覚を持っています。
それは地図でいう現在地のピン📍を脳が認識しているからです。
コレねコレ↓人の脳は普段、コレを認識する機能がある。
なので人はどこに居るかわからない状況でも言葉では「自分はここにいる」とだけは言えるし、感じています。

現在地のピン

離人症は重くなるとこのピンを認識できなくなります。恐ろしいことです。

離人症にかかった事がある人には目に見える’この世界’という’証明しがたい現実と呼ばれる世界’に対する疑念に不安を感じた事がある筈です。
鏡を見ながら自分の顔を触れ回してみたり、自分の名前を呼んでみたり、壁や机に触れながら本当にあるのかと考え込んだり。

俺は14歳頃と20歳頃がピークで2度、重い鬱病にかかった事がありまして、この離人症がとても不安なものでした。
身の回りにいる家族や人々、本物なんだろうか?実は自身はどこか違う世界にいて、幻を見せられているのではないか?

在るという実感がない、感じていた実感がなくなる感覚をどう表現すると人に伝わりやすいのだろう。

最近だとコロナで嗅覚や味覚がなくなったと戸惑う声がありましたが、俺たちが日頃に感じている存在しているという実感をなくすというのはそれに似た感覚の上位版なんじゃないかと思います。どうして?
嗅いでいるのにニオイがしないなら、その状態が長く続く内にニオイの記憶すら薄れていき、やがてそのニオイが存在するのか疑わしくなってくるし、食べている最中に味がしないなら長引くと元から味が存在したのか疑わしくなってくるものです。
人の感覚に対する記憶は短いので例えば一年前に片腕を失くした人が腕があった時の感覚を記憶から思い出そうとしても、どんな感じだったかなかなか実感に近い記憶を思い出すことができなくなっているでしょう。

自身の鼻や舌が疑わしいのか、それを確かめるには味覚や嗅覚の場合には他人の味覚や嗅覚がどう判断するのか聞いて、自身だけが匂わない、味がしないなら、自身の鼻や舌が病んでいる可能性が高いかもなぁと判断する材料にはなりますよね。
その逆さまにもしかしたら自身の味覚や嗅覚が正しくて、他の人はニオイや味を錯覚しているのではという疑い方もできますよね。
その戸惑いが味覚や嗅覚ではなく、存在を感じるか否かで起きた場合、確かめようがないんですよ。

だって、自身や目に見える世界が存在するのか人に聞こうにもその人も幻かも知れませんから正しい答えを答えないかもしれません
もしかしたら悪魔が人の姿に化けたり、RPGゲームのようにコンピュータの仮想世界の中で人々はプログラムで何をして何を話すかまで決まっているのを自分たちがわからないまま自分は存在すると勘違いしているだけかもしれない。

現実の実感がないから何か派手な事をしたらそこで夢や幻から覚めるとか、反応で何か確かめる事ができるんじゃないかと危ない事が頭によぎる事もある。

この離人症は強いストレスから自身の精神を守ろうとして現実逃避させる心理学的には防衛機制と呼ばれる仕組みで生じるものと医学書では解説されています。
ナチスの収容所に監禁されていたユダヤ人の精神的な変化などをナチスの医師が研究していた資料が米ソに渡ったんですが、そこに有名な拘禁反応についてのデータもあり、拘禁反応でも防衛機制によって離人症や統合失調症様の症状がでることが知られています。
拘禁反応は長く刑務所に閉じ込められている囚人などにも見られるもので自由を奪われたストレスから起きる思考や行動、心理・精神の反応です。

鬱病が緩解するとこの感覚もなくなりますが、映画マトリックスをはじめて観た時は思わず「そうそうこんな感じw」と笑ってしまうくらい、あんな感じの想像をしていました。
緩解してくるとそんな感覚に迷っていた事など忘れてそんな事を考えもしなくなり、平凡な日常に戻る。

俺がこういう心理や精神医学の知識があるのは若い頃、中学生から10年近く苦しんだので自分で治すヒントはないかと色んな本で調べたからです。
とにかく苦痛から抜け出したかったんですね。

しかし、その後、あれが起きて再び考え直す事になります。

【キッカケ②不思議体験~神?仏?聖霊?や、いわゆる幽霊等との遭遇】

こういう存在や、UMAなど20代はほんと目まぐるしく色んなのと遭遇しました。
鬱病、離人症じゃないのに再び存在というものについて考え込んでしまう。
彼らは普段どこにいたのか?と誰だって不思議で仕方なくなる。

自身の外にあるものが見えているのか、内にあるものが外にあるように見えているのか、そのどちらもで中間なのか、それ以外の答えなのか?
俺がこの記事で語るのは人々には予想外の仕組みかもしれません。学者ならもしかするとイメージが伝わるかもしれません。

シュレーディンガーの猫とか、パラレルワールド、並行世界、次元、時空や空間、一念三千大国土、世界5分前仮説、様々な事が頭をよぎります。
こうやって並べるだけでも色んな本を読んで頑張って調べていたのが伝わると思います。

例えば人々が幽霊と呼んでいるものも明らかにおかしいんですよ。
人々が思っているのは、幽霊は意思を持った生き物が死ぬと霧のように肉体から抜け出て、目には見えないけどこの世界にいるものというイメージで語っていますよね?しかしですよ、
俺が2階のベッドに寝ている時に明らかに壁と床を突き抜けて1階の方から助けて助けてと声が近づいてくる。で、耳元まで来るわけですよ。
物理的におかしいですよね?
壁や床をすり抜けて下から上に上がってきたということですから。
それを可能にするには霊が波動のように通常の粒子より細かいものじゃないと壁や床をすり抜けたりできません。
次元とか時空とかそういう概念が関係しているとかでないと起き得ないことですよね。

他に幽霊ではないですが、感覚からいわゆる神聖なもの、人のこぶし大の大きさで縦に細長い八角形の形で、眩しく真夏の太陽の日差しが鏡に反射したような光を放っている謎の存在とか。
あれがどんな文献からも未だにインターネットからも情報が見つからない。なんだったのか。

リビングの食卓で向かいに姉が座っていて、横に母が立っている。
俺と姉と母の間の宙に浮いているのに、俺にしか見えていないんです。
その存在は夏の太陽の日差しのような熱まで放っているのに、その熱も俺しか感じていない。

幻覚じゃないのは確実なんです。
また不思議なことが起きたら周囲の状況含め詳細に確認するぞ!って決めて生活していたので自身を落ち着けて冷静にじっくり自身や周囲の状況やら確かめたし幻覚を引き起こす科学的・医学的な要因・条件を1つも満たしていない状況で起きているのは間違いありません。

霊感とか俺みたいな凡人が選ばれし者だとかそういうもんじゃない。
悪い教祖とかは自分は特別な選ばれしものなんだと盛りに盛って人々を惑わしますが。
神は公平ですから条件さえ満たせば誰でも起きうる仕組みという前提で考えると幾つか可能性が浮かび上がってくる。

OK?じゃあ本題の話しに入っていきましょうか。

まずは

【あなたの隣にいる人は本当に隣にいるの?】

単刀直入に切り出しますが、
あなたの隣に誰かがいて、目にも見えていて、会話もしながら触れ合っているとしても、その人が本当に目の前の近くにいるとは限りません。

実際にはその隣の人とあなたは何光年も離れた場所にいる可能性すらあります。
隣にいる、それは肉眼などの情報をあなたの肉体の脳があなたの意識にそう見せているからです。
でも隣の人は隣にいる。だってほら!頭ペシペシ、あごの下タプタプ!確かにいるじゃない!」
わかりますわかります、なぜそう見え、感じることができるのでしょうか?

少しアプローチを変えて身近なもので説明しましょう。

『あなたは今、スマホやPCの画面でこの記事を表示して読んでいます。
その表示されている俺の記事の情報は元はどこから俺が送信したかあなたにはわからないでしょう?
そして、この情報はどこにあるのか?あなたのスマホ画面やPCモニターに表示されているとはいえ、そこにあるのではなく、note株式会社が利用しているサーバに保存されていて、この記事という情報自体はそのサーバーに俺がデバイスから電波に乗せてアップロードして保管されています。

それを電波に乗せて遠くから送受信してあなたのスマホにダウンロードし画面に表示し、その画面の光をあなたの目がセンサーのようにとらえ、それを脳に送り、あなたの意識が脳の情報を認識してようやくあなたはこの記事を見て読んだりしているのであって、この記事の情報自体はあなたがどこにあるのかもわからないnote株式会社が利用しているサーバーにあるんです。
あなたが近くにある情報、スマホの中にある情報と思っていれば、それは錯覚です。』

え!?何言ってるのあなた!?私は確かに目の前にあるスマホの画面でこの記事の情報を見ているじゃない!

だから今そういう話をしているんです。
あなたの隣に誰かいて、目で見ながら話しをしているし、手を伸ばしたら触れたりできるとはいえ、その人が本当に隣にいるとは限らない、実際には何光年も離れた場所や他次元、他世界にいる可能性すらある。
隣にいる、近くにいると感じさせるのはデバイスである肉体の脳がそう感じさせています。

いいですか?

スマホには口(スピーカーや充電口)もあるし、耳(マイク)もあるし、その情報を処理する脳(CPUやGPU)もあります。
そうした器官で処理した情報を電波で受信する受信機、送信する送信機もあり、食べ物は電気を食べてスマホの体を動かすエネルギーとしているので食べないと飢えて動けなくなります。
あなたがこの記事を情報として感受し表示しているスマホと、それを見ているあなたは同じあなたではありませんよね
そしてスマホには意識がありません。スマホの中には、この記事を情報として送った張本人の俺もあなたもいません。
スマホは大体、数年が寿命でその後はその遺体が回収され、バラバラにされ、元の金属などに分解、リサイクルされ、また別の物に作り変えられたり、自然に廃棄され還されたり、また同じスマホになる事もありませんし、メモリーが分解されたら記録されている情報、つまり記憶も復元が難しくなります。
記憶された情報がなくなった訳ではなく、宇宙には情報が漂っていて復元ができないだけです。

この場合、人間にとってスマホやPCなどのデバイスは肉体を意味します。
しかしデバイスに意識はありません。
肉体が知覚する情報はあなたの意識が見たり聞いたり感じたりしています。
その意識はどこにあるのか?つまり自分は本当はどこにいるのかです。

人々はデバイスの中に意識があると思っています。
しかし繰り返しますが、情報を視覚的に捉えるデバイスの目はあなたの意識ではありません。目の情報を処理してあなたの意識に映すデバイスの脳だってそれを見ているあなたの意識ではありません。
あなたの意識はどこからデバイスが映す情報を見たり感じたりしているのでしょう?

何を言っているのあなた!?意識はデバイスの脳CPU.GPUにあって、死んだら意識なんてなくなるに決まっているじゃない!

だから、スマホにあなたの意識はありますか?ないですよね。
その画面を視覚情報として認識する目にも意識はないですよね。
その目からの情報を処理しているCPUにも、映像として処理するGPUにも意識はないですよね。
それを映している情報をあなたの意識はどこから見ているんですか?
の、脳。人間のCPUにだけは意識があるのよ!
ほう、では死んだら意識もなくなる筈だと、死んだら自分なんてものも知覚も何もできず、無が有ると言うのですね。いいでしょう。
ちなみにそれを唯物主義といいます。

では人は時々、意識を失う気絶状態になる事がありますが意識はどこに行ったんでしょう?
ど、どこにも行ってないわよ。脳CPUの中にあるけど、とにかく機能を停止しているから記憶もないのよ。
なるほど。では人が夢を見ている時、意識が脳の中にあるならどうして意識は違う夢の世界で普段とは違う事が出来たりするんでしょう?
それはあれよ、違う世界に行っているのではなく脳に既に記憶されている情報からランダムに組み合わせた情報を脳CPUにある意識に見せたり感じさせたりしてるんだわ。
では普段見たこともない体験したこともない物事を夢で見たり体験することがあるのは何故でしょう?
意識は脳にあり夢を意識は体験出来るのにどうして脳の中に既にある情報は夢で体験出来て、眠っている肉体の周りで起きている情報は意識に聞こえたり感じたりしないのでしょう?
き、聞こえたり感じたりすることはあるわ。寝耳に水といって、夢を見ている時に肉体に起きた事に対し驚いて飛び起きたりすることがあるじゃない。
それは意識が普段のこの世界に戻ってきたからですよね?どこから意識が戻ってきたり、意識がどこに行ったりするのでしょう?
だ、騙されないわよ。意識はどこにも行かないわ。脳CPUにずっとあるのよ。脳内で組み立てられる夢の情報と、寝ている際の肉体に起こる情報、どちらかに切り替えて意識は体験できるようになっているの。どう?」

あなたが答えたのが一般的な見解であり、想定する模範的な回答です。
しかし、
あなたは意識とは脳内にいて肉体を動かしているという考えですが、それは本当に合理的な発想なんでしょうか?(※イメージ↓)

映画:メン イン ブラックより。


【世界の見え方は人それぞれ】

「地球は球体だ!俺にはそう見えるし科学はそう言っている!3D説」
「いいや俺には平面に見える!聖書は円と書いているから平面だ!2D説」
「俺は生まれつき目が見えないから世界は真っ暗闇で形も色もわからない!見えるなら少しは世界ではなく俺のことも見て気を配ってくれ!その他」

なるほど眼球は球体ですし、球体は3Dです。
なるほど平面。2D
なるほど暗闇。

人間は自分の五感、脳に騙されて実に多くの錯覚や迷信や妄想の中を彷徨っている生き物です。

残念ですが球体か平面かなんて地上から狭い範囲しか見渡せない立場の庶民が頭で考えるだけでは確証が得がたい。
どう言おうとものは言いよう、ああ言えばこう言うの応酬になります
そもそも空気中の水分による反射や光の屈折などをはじめ、絡む要因が多いので、水平線の高さや月や太陽が地平線に沈むことなどだけでは論証できないのです。
そもそも論証、論理にも限界があり、論理で証明できないこともあると論証されています。

それを科学的に確かな結論に導くにはそもそもこの世界が実在するのか?この世界は2Dではなく確かに3Dなのかなどをハッキリさせる必要があります。
それをハッキリさせない内から過程を飛び越して地球を平面か球体か言い合っていてもしょうもない訳です。
この世界自体が2D、二次元だという科学的な仮説すらあります。
要は二次元だけど脳がそれを3Dに変換して知覚させているだけではないかって仮説です。

そう言った話しをさらに厄介な話しにするのが俺の話し、
肉眼で見た、脳が見せる情報は実際には全く違う姿をしている可能性があるんだぜ!です。
うんざりしますねw

生まれつき肉眼で見えない人だけが盲人だとは言えない、俺たち肉眼で見える人間も見えていないことばかりなのが実状なんです。
ただでさえ人が可視できる可視領域、知覚できる知覚領域はこの世界に対してあまりに狭いんです。

世界が自身の外に在ると肉眼の情報だけに頼る人は、神さまはいない、神さまはいるがきっと隠れているのだ、神さまはいるが遠く離れた宇宙のどこかにいるのだとか考えたりするかも知れません。

これは内にあるものが外にあるように見えるのだなんて事を言いたい訳ではありません。

【ここにいる問題〜あなたは今どこにいる?】

誰しもが世界を見る時に観測点を自身、観測基準を人それぞれに定めて世界を見ています。

しかし人間、誰しも自分が本当はどこにいるのかわかりません。
Googleマップは読み込みが遅いスマホやエラーなどで地図を読み込む前に現在地のピンだけ表示される事がありますが、まさにそんな感じ。

自分はここにいる!って、ここどこだよ?

誰しもが突き詰めると自分がどこにいるのかわからない、そもそもどこからこの世界に来て生まれ、ここはどこで、死んだらどこへ行く事になるか?わからない。

地球がものすごいスピードで自転や公転したり宇宙を落下しているんだ!なんていう科学者までいますから、「じゃあ太陽系は宇宙のどの位置にあるの?地図は?ここどこだよ!」

どこにいるのか?わからないけど、「ここにいる」とは言えるんです。
でしょう?
脳が現在地のピン📍だけは知覚させています。

だから実際には太陽系が宇宙のどの位置、どの地点にあるのか等、地図としてはよくわからないけれども、「ここにいる」とだけは人間は感じるし言える。
意識があればね。

仮に寝ている間に誘拐されて、夢を見ている間に30キロ先の建物の真っ暗な地下室に運ばれ、あなたがそこで目を覚ますとします。
目を開けたら真っ暗でどこにいるのかわかりません!!
明らかに自分が寝ていた場所じゃないのは床の感触やベッドがなかったりでわかるのですがどこにいるのかわからない。壁も自分が寝ていた筈の部屋の壁と違う壁紙の感触がする!
壁を伝いながらドアを探すけれどドアがない!
そんな状況でも「誰か助けて!自分は’ここにいる’!」とは感じているし、言えるんです。

どこにいるかは正確にはわからない。
しかし、’ここにいる’とは言える。
俺はこれを’ここにいる問題’と呼んでいます。

ここにいる事は知覚できるんだから、どこにいるのかを明確にしたい訳です。
それを知りたい。
じゃないと、人間はどこからこの世界に来て、ここからどこへ行けばいいのか定まらず、人生をあてどなく彷徨ってしまう

『北極星はどこにある?』

現在地はとりあえず横において「ここにいる」と意識がある限りは知覚できる事は先に説明しました。
皆さんも普段からそれは知覚できるので言っている意味は理解できた筈です。

問題は正確にはどこにいるのかが深く考察すると誰しもがわからない事に気づく。
どこにいるのかわからないのに彷徨ったら迷子になりかねません。
出来れば現在地を記録しながらしばらく遠くに何かヒントになるものがないか探しに行きたい場合、古代から人間に使われ、動物達も利用する天体が役に立ちます。

特に北極星の位置をまずは把握したい。
自分の位置を痕跡を置きながら記録しつつ北極星の位置を頼りに移動していれば方角を見失ったり、どう移動してきたかやスタート地点を見失うリスクは少なくできます。

人生を旅する上で北極星の代替となるのが真理とはよく知られています。
誰がどこから見ても永く永く変わらず真北にある基準となる星。
それを見つけずして自分はどこにいるのかわからない。下手に動き回ったら迷子になってしまう。
まず動き回って世界を確かめて回る冒険に出る前に北極星の位置だけは把握しておきたい。
そのため、この問題に気づいた人は自然や物事を観察して法則性を見出して収集したり、宗教的な哲学に耽ります。

【科学的にもこの世界や自身が存在する証拠が見つからない】

さて、人々は神がいるならどこにいるのか証明してみせよ!なんて鼻くそほじりながら悪態をついたりしますが、
そもそも離人症の章から説明しているように、実は科学的にもこの世界が存在することすら証明できていません。

はうん!?

うん、これを言うと変なリアクションをする人ばかりですが大事なことなのでもう一度言いますね。

科学的にもこの世界が存在することを証明できていません

それどころか俺の2歳年上のドイツ野郎マルクス・ガブリエルは世界は存在しないと言い出しました。
さあ大変です。神はいないとか言っている人々も自身が存在する証明すらないことを自覚していません。

どうします?

「わ、我思う!ゆえに我あり!」

はいはい、だからそれも自分はここにいるということは感じるし言える自分はここにいる問題の内じゃないですか。
どこにいるのか、どこに在るのかを知りたいんですよ。

【実は聖書や経典にはわかりやすく居場所が大雑把ながら書いてある】

聖書にも、仏教の経典にもわかりやすいシンプルな言葉であなたが本当はどこにいるのかを大雑把ながら指し示しています。
「あなたが宝を置くところにあなたの心は在るのです」
何を自分の宝としているかは人それぞれ違います。

物質的な金品、淫欲を愉しむ為の愛人、高級な洋服や宝石、地位や人々からの賞賛や名声といったものを宝としている人々が多いですが、
そういった人はこの地上にあるものを宝として生きています。

愛・慈悲、報恩・感謝、信仰・真理、知恵・真実など目に見えない心を宝としてに宝を置いて生きている人々もいます。

貪欲、憎しみ、悪巧み、嫉妬、嘘、争い、支配欲、歪んだ優越感の心で地獄に宝を置いて生きている人もいます。

それぞれ肉眼では同じ世界の地球上にいるように見えるかも知れませんが、実際にはその宝があるところにその人の心はあり、肉体を離れたらそれぞれがそこに置かれる事になります。
どのみち肉体がありながらもその人はその宝があるところに心があるので居場所も行き先も生きている内から「ここにいる」と言えます。

死んだら自分というピンをなくして無なんじゃないの?と思いたい人々には納得したくない話しかも知れません。

【心離れて感じる時、それは実際に遠くにいる】

目の前にいる人と関係がすれ違って目の前にいるのに遠く離れているように感じたことはありませんか?
その時、実際に遠く離れたところにいるという話です。
どれだけ言葉を尽くしても虚しく伝わらない。
同じ日本語を話している筈なのに互いに外国語を言い合っているかのようにまったく意図したように通じ合わないとか。

日本でよく知られる話に鶴の恩返し、夕鶴があります。
この話は実に心の距離、心がどこに在るのか、心と言葉の関係、その動きや現実世界への影響の仕方をよく表現しています。

男が最初に鶴を助けた時、男には人間が持つ相手の立場や気持ちを自分のことのように置き換えて感受する共感能力、そして人間が持つ憐れみの心を鶴にかける。

そして鶴はその恩を返したいと人間が好意に好意で返す返報性、報恩の心を起こすことで人間の姿に変化して男の元に現れます。

男は貧しいながら心優しい人間だったので鶴は貧しさに耐える男を憐れんで自分の羽根で布の織物を織り男にそれを売ってお金に換えるよう男に好意でしました。

しかし、男は実際にそれでお金を手にすると欲に駆られて欲に心覆われてしまいます。
そして本来、自分の羽根をむしって身を削って織る布なので一枚でも苦痛だったのに男は鶴にもっと織れと催促するようになりました。
この時、男は人間の心ではなくなっているので人間の心をした鶴がなにを言おうと男には通じません
そして男は人間の心をしていた時に約束した鶴が織物をしている時に部屋を覗かないという約束も破ってしまいます。
鶴は人間とはこうも欲深く、人間になるとはこうも苦しいものかと泣きながら去っていくのでした。

この話も男と鶴は目の前にいながらも実際にはその心に応じている場所も違えば実際の姿も異なることも暗に示しています。
なのでおとぎ話でありながら、人々が日常で感じている人間関係の心の動きをよく表現しているので現実的な話にも感じられる話しになっています。

また、言葉でのコミュニケーションの難しい問題も示唆していますね。
よく恋人と口論になる人は言葉に頼らず素直な心で、相手の心をよく見極めながら、慎重にやり方を選ぶ習慣をつけることです。
特に男性は女性に対して理屈で押し通そうとする悪癖があります。
それは言葉を紙に書き出したり図も添えてみたり丁寧にやっても絶対に伝わらないし関係がこじれるだけです。

【肉眼で見えない世界は公平世界、肉眼で見える世界は意地悪な世界】

人間はこの世界をどちらかで捉えてしまいがちです。
目に見えるものしか見ない人と、目に見えるものは価値がないと考えて目に見えない法則性の世界しか見たがらない人とが多数派と少数派で論じ合いがちだからです。

しかし、どちらも人間の五感、脳で捉えられる範囲に縛られてしまいがちです。
中には崇高な存在の姿を見たりする人もいるでしょう。

認識できている範囲については目に見えない法則性の世界を観察することができる人々の方が広く認識できている事になります。
しかしながら、肉眼で見える世界を否定すると結局はこの人々も肉眼で見える世界しか見ない人々と認識できている範囲が等しくなります。

ありのままにいうと肉眼で見える世界は不公平・不公正な意地悪な世界です。
あまりの不公正、不公平に不満や憤りを感じて、政治家が悪い!なんて犯人探しをしながら「世直しすべきだ!」なんて思うこともあるでしょう。

理解が進むと、あえてこの世界はこうしてあるんだな「世直しなんて人間に困難な事より身近なこと自身を直そう」と考えられるようになりますが、そこまで理解ができない段階の人々は「善人は社会が大変な時に何も言わないから役に立たない!」なんて非がない人まで責めたりします。

なので肉眼で見える世界を嫌う人々には「地上はサタンが支配しているのだ」なんて言う人もいるけれどもそう見えて当然です。

しかし肉眼で見えない世界については99%公平世界にしか見えません。
人によっては100%善因善果悪因悪果の公平世界と勘違いしている人も出てくるでしょう。

では片方ずつ話していきます。

【肉眼で見える世の有り様は意地悪な世界】


肉眼で見えるこの世界の真実の有り様として、悪人ほど地位や富の高みに上がります


前世で善いことをすると今世では高い地位や富ある家に生まれ、前世で悪いことをした人は今世では障害者や貧しい立場に生まれなんてよく言われている事は事実に反している誤りです
むしろそういう誤った捉え方をしている人の行く先はシンプルでわかりきったもの。
そもそも人は何の権威もないし、金品などの物質的な財は富ではありません。
それが理解できないのは無知から誤った認識で対象に執着している貪欲な人々だけです。

肉眼で見える世界では命が命を喰らいあう欲望や執着に捉われたものが引き寄せられ集まっている世界です。
物質から何まで依存、執着しています。

命はみんな他の命を奪い合い喰らいあう残酷な世界です。
通常、神さまに与えられたそれぞれの命をそれぞれが横から強奪し合って殺し合っている様を見て痛まない心があるのでしょうか。
鈍くなっている心はあるでしょうけれども、通常大半はそんな世界の有り様、自分もまた他の命を喰らわなければ空腹になって命を保てない心身の有り様を悲しく感じます。
神さまから与えられた自由、財産、命を奪いあって人々は生きています。
しかし、どのみち誰もが肉体の生を生きている間は奪い合っていない人はありません。
俺は中学生頃から食べるという行為が醜く見えて食べているところを見られるのが嫌で1人だけ自分の部屋で食事するようになりました。
二十歳頃は肉を出されると文句を言っていました。
まったく神経質と云うか親に申し訳ない。
だいぶマシになりましたが未だに人目に付く外食が苦手です。

ふつう排泄する時は人に見られないようにトイレの個室でしますよね?摂食する際も排泄するのを人に見られるのが恥ずかしいような感覚に等しく感じていた訳です。

さらに生老病死に愛別離苦、五蘊盛苦、怨憎会苦、求不得苦の四苦八苦が何事もつきまとう。
人間社会は未だに生贄の犠牲を出し続けている
命に限らず誰しもが誰かを犠牲に、誰かの何がしかを食べています。

宮城県は大昔に幾度か凄まじい干ばつの歴史がありますが、岩手県や青森県はもっと酷くて昔は飢饉に苦しみ、その記録が今も残されています。
孫娘を身売りに出した老婆「わしらは娘を食べたんじゃ。娘を身売りに出した金で食べ物を食べ生き延びるのだから娘を食べたのと同じこと。娘を買う男は娘の性を食い物にして娘を食う。人間みなそうやって人も食い合っている」

この世界の古代から続く今の社会システムでは貧しい人々をあえて作らないと社会が成り立たないので政治的に貧困層を作ります。
貧しい人々をあえて作り出して低賃金で生産・労働させないと誰も自分が生きるに必要以上のものを生産するためにわざわざ労働したがりません。
不公正・不公平な待遇でも働かないと生きられない人々の層をあえて作ることで維持し続けているのですから、貧しい人々を生贄にして彼らの生産する富を搾取して喰らって成り立たせています。
さらにあえて階級を作ります。じゃないと楽していたい人の欲を解消出来ません。
これは古代から続いている事です

誰しもがこの世界で地位や富の高みにつきたいなら人より多くの悪事を行い、多くの犠牲の上に立たなければならない構造です。
そして彼らが自分の富を分け与える事はありません。自分が他者に献身することもしません。

前世で善い事をしたから高い地位や富を得た神さまに選ばれし善人ならば彼らは今世でも善い事をたくさんする筈ですが、現実には悔い改める事が出来ずにたくさん他者を犠牲にして自身の地位や富を保持・拡大することにしがみつくだけです。

手厳しく聞こえるかも知れませんが、それがありのままに見た現実、事実です。
仮に王族や貴族に神が見込むような聖者になる素質のものが生まれた場合、王位や家を継がないよう啓示がおります。
先祖の業を継ぐことになるからです。
聖者のエピソードにはこういったものはよく記述されています。

聖書にはこの事が複数箇所で述べられていますが、わかりやすいのは「金持ちが神の国の門を通るより、ラクダが針の穴を通る方が易しい」と述べている事です。
「わぁ、金持ちは神の国に行けないのね!」と思った人は俺より素直ですね。
俺は少々皮肉っぽいところと、どうしたら可能かを考える癖があるので「金持ちならラクダが通れるくらいの穴が大きな針を特注で作れるんじゃね?」なんてことが頭によぎります。
比喩で難しさを表現しただけなので実際にそんな針を作っても無駄です。

理由については律法を守っているという裕福な男性に対してイエス・キリストが「あなたはよく励んでいるようだが足りないものがある。貧しい人々に財産を分け与えなさい」と言った途端に顔色を変えてイエス・キリストに背を向けて向けて去ったそうな。
たったそれだけでこんな人間界から卒業できるところにいたというのに!なんてもったいない。
ものすごい地位や地上の富への執着心。
金持ちに限らず、人間て何がしかにそうして執着して虚しく一生を無為にしている訳です。

え?納得いかない?では、他のことで説明しましょう。

【前世で悪いことをしたから今生で貧乏や障害者に生まれるというのはウソという話し】

なにをもって根拠に言ってるのか?という人もいるでしょう。
俺からしたら前世でいいことしたから金持ちや高い地位の家に生まれるという話の方が何を根拠に言っているのか、この世界で法を観察する限りそれを否定する法や根拠はあります。

それは水を観察することでもその法を観ることができます。
なぜ水?水と命はとても関係が深いんですよ。ここでは話がそれるので割愛しますが。

この地上に在る水は主に天から降り注ぐ水と、地下から湧いてくる水とがあります。
一方は長い年月の末に浄化され蒸発し天に昇った水であり、一方は長い年月地下に沈んでマグマに焼かれ浄化され地上に昇ってきた水です。

共に過程に違いはあれどこの地上にたどり着いた時には等しい水準の水になっています。
どちらがより清い、どちらがより汚れているということもなく、等しい水準です。

人も同様に前は天にあった者でも、地獄にあったものでも、この地上に生まれ置かれる時にはこの地上に相応の等しい水準で生まれてきます。
原則はです。時には生まれる以前から聖別されていた聖者の話もあります。

とてもシンプルでわかりやすいですね。

肉眼で見えない世界は公平世界という説明をこのまましても、人々の日常の誤認の問題があるので、先に本当の富や快楽とはどういったものかを認識して貰う必要があります。
それがわからない人にいきなり肉眼で見えない世界の話をしても理解しようがないので。

【人々は本当の幸せ、快楽、財産に無知な故に肉欲の対象に執着し幸せ、快楽、財産を知らずに心飢え乾いて彷徨っている。】

前述は普段、肉眼の目に見える世界についてですが、目に見えない世界も含めたこの世界の有り様を理解するのに、本当の幸せ、快楽、財産について理解することは近道でもある。

本当の幸せ、快楽、財産は物質的な肉体とその対象とする地上のものとを得ることに縁って起きる事はありません。
それを理解していない心頑なで暗闇に沈む人々はそれが偽物と知らずに物質的に地上の何かを求めて得ようとする、それが幸せ、快楽、富と誤って自ら苦しみの世界に沈んでいきます。

本当の幸せ、快楽、財産は何も物質的な財産や快楽や伴侶を持たなくても心は安寧と幸福と喜びや感謝に満ち溢れて、それは実際に物質的な肉体の胸が熱を放つほど強く、長く続く幸せ、快楽です。

俺は悪ガキだったので10代に薬物のMDMAを使用したことがあります。
本当の幸せはその多幸感より強くて安全で酩酊ではなく安らかで持続性のある幸福感です。

人々はこれを知らないので誤った対象を在るかのように認識し、それに価値があると見誤り、執着を起こして、幻を実際に手に掴もうと求めても得られる訳がない苦しみに喘いでしまいます。
しかし、他人が人々に本当の幸せ、快楽、富を教える事は困難な事です。
当人は自分自身のことすら見えていないのに、見えていない人にこういう文字があって、それはそんな形でと説明しても色まで伝えることが出来ません。

人間は錯覚し妄想し迷信に突き動かされている人々が大半です。
もちろん俺だってそうです。それを自覚しているから注意深く物事を観察して実を見極めようと覚めている努力をします。

自分自身が自分自身に騙されているとは思いもよらないので、その肉体の五感や脳に騙されている事を自覚する人もなかなか出会うことがありません。
人間の脳自体がそれを求めて得るようにその人を誘惑し、そしてその人が実際にそれを手にしても一時的に誘惑を解除するだけで幸福感を感じさせる脳の部位が働く事がありません。
しばらくするとまたそれを求めて得るように脳は命令を出す。
まるで鼻先に人参をぶら下げられた馬がそれを食べたい!もう少し頑張ればもっと頑張れば届いて人参を得られると騙されて走り続けるようなもの
なので欲望を果たそうと求めても満足できることは絶対にありません。
再現なく延々とそれが繰り返されて闇雲に走り続けている内に泥沼にハマったり谷底に落ちたりして虚しくしているのが人間です。
(※ちなみに諺を使った例えであり、現実に馬の鼻先に人参をぶら下げても馬は走らないと思います。推測ですが、馬はそれくらいは気づく程度の思考・判断力くらいある筈。)

では本当の幸福、快楽を体験するにはどうすればいいか?前記事でも触れていますが、心が天に在る必要があるのです。
心が天にある時、人はいわゆる天人やら天にある存在に遭遇することが起きます。

本当の財産、価値ある宝とは愛・慈悲、報恩・感謝、信仰・真理、知恵・真実といった天に由来する心です。
これらは肉眼に見える世界では姿形を持たず人々に価値がないように誤解それていますが、目に見えない世界では姿形を持って、実際に価値ある宝としてやりとりされています

霊的な話しや前世の話をしながらお金を崇拝することを言うような人は嘘をついていますし、人を惑わすためにその話をしている下心があります。
俺は真実の話をしています

人々が思っているより重要な真実なのでもう一度。

本当の財産、価値ある宝とは愛・慈悲、報恩・感謝、信仰・真理、知恵・真実といった天に由来する心です。
これらは肉眼に見える世界では姿形を持たず地上の人々に価値がないように誤解されていますが、目に見えない世界では姿形を持って、実際に価値ある宝としてやりとりされています

最初に話したように、人は本当はどこにいるのかわからず、例え肉体は近くにいたとしても、実際には遠く離れているところにいる可能性がある。
仮にあなたが複数人といて、その視線の交差するところに天にある存在がいたとしても、あなた1人にしか見えていないということが起きるのは、あなたしか心が天にある人が周りにいなかったから起きる。

この意識、心というのは科学的には今でも仕組みが謎です。

【地上の宝は無価値】

これを理解、確信するのはなかなか。まあ話すしかない。

夢と現実はよく似ています。
夢の中で人々はたくさんのお金を得たり、自分好みな相手とエチエチして浮かれたり、気に入らないやつを魔法で殺したり好き勝手しますが、夢から現実の世界に戻ると夢の中で手に入れたはずの金銀財宝や美男美女や力も持っていません。残されたのは夢で何したかだけ。「なんだ夢だったのか」
現実も同じです。
現実で人々はお金を得たり、自分好みな相手とエチエチして浮かれたり、気に要らないやつを殺したり好き勝手しますが、肉体が死んで気がつくと手に入れたはずの金銀財宝や妻や夫や力も持っていません。残されたのは現実で何したかだけ。「なんだ現実だったのか」

現実は実の現れと書きます。実ではなく実の現れ。
うつした世、現し世(うつしよ)、仮の世などと古の日本人は呼んでいました。

現代の言葉に直すと「仮想世界」です。

俺がよく頭に浮かべる聖書の「太陽の下に新しいものは1つもない」
仮想世界なんて現代人の発想と思ったら間違いで古代の人も同じようなことを考えていたんです。

先程、水で喩えてこの世に生まれてくる人に前世の違いで優劣などなく等しいと書きましたが、前世で現世の優劣がつくという見方は仏教ではなくバラモン教の歪んだ考えであり邪な見方です。

この世界は縦横無尽に法則でできています。
すごい精密緻密に縦横無尽に自分たち人間の体さえ。
それを観て古代人はこの世界は神の言葉で創られていると表現した訳です。

だから、人はこの現実の世に生を授かった機会を善く活かすことが重要になりますが、社会の人々のほとんどはその仕組みを理解せず無為に生きてしまいます。
仮想世界なら別になんだって良いんじゃないの?

NO、気をつけてください
俺たち一人ひとりはマジで見られています。
どうなってんのかは謎ですが夢の中まで見られています。
心の中でなに思ってんのかまで見られています。

【肉眼に見えない世界は公平世界】

ようやくここまできた。ふぅ….人に説明するとほんとなげえ。
これでも頑張って端折ってるんですが、端折りすぎると意味が伝わらない。
肉眼で見える世界は残酷で苦しみだらけで不公平な意地悪な世界だと説明しました。
そして肉眼で観えない世界は公平世界だという話です。
善因善果、悪因悪果、これがすべてではないことは前記事で書きましたが、基本的にこの自因自果です。

善因善果は収入、悪因悪果は負債、そう大雑把に捉えればいいです。
これはきっちり精算されます。かっならずです!ほんっとにそうできています。恐ろしいほどきっちり。

悪い報いは生きている間に受けて精算したほうが運がいいです。
簡単に言いつつその報いは苦しいですが肉体の死後に精算されるより比較にならないほどマシです。
悪いことするとすぐ悪い報いを受けてしまう人は神様に愛されていると思っていいくらい幸運です。
悪いことするのを自主的にしないよう改めるようになるから。

善い報いは肉体の死後に精算してもらった方が運がいいです。
例えば「俺は生きている時に人々にアレコレ善いことをしましただから天国に入れてください」「その報いならお前が地上の宝など無価値なものをよこせとしつこいので気が進まないが地上でとっくに精算してある。お前は人々より贅沢な生活をしていたではないか。私が惜しみなく与えたものをお前は惜しんで非情にも人に分け与えることもせず福徳の財を増やすこともせず使い果たしたのだ。それよりお前はこの時に嘘の噂を流してあの者を陥れたようだが、これは偽証の罪にあたる。この負債がまだ精算されていない。不法者を天に入れれば法を守っていた善良な民に不公平になる。自身でしたことなのだから自身できっちり精算する必要がある。」「・・・そ、そんな。」
こうなるから、善い報いは肉体の死後に精算してもらうか、地上で報いを求めるならせめて本当に価値ある宝を授けてもらえるよう願った方が良いです。
本当の財産、価値ある宝とは愛・慈悲、報恩・感謝、信仰・真理、知恵・真実といった天に由来する心です。

善いも悪いも報いを受けるタイミングは人それぞれ違います。
すぐ受ける人、だいぶ経ってから受ける人、死後に受ける人。
しかし、必ず恐ろしいほどキッチリ精算されます。

こういう訳で悪い報いは生きている間に受けて精算し、善い報いは肉体の死後に受けて精算してもらえるような人は神さまに愛されていると思っていいくらい幸運だって言った訳です。

【ピラミッドにしてこれらを説明すると】



人々は自分を高くしようと高みに登ろうとお金や地位や愛人やらを求めて罪を重ねながらこの世界のピラミッドに登ろうとする。
しかし僅かですがそういう人々や自身の欲に惑わされずに地上では低く貧しくただ真実の価値あるものを求めて生きる人もいます。
この世界の欲望のピラミッドに登る人々には意味がわからないのでそういう人々は愚かだと笑われ見下されたりもするでしょう。

しかし誰しもが地上の生を離れる時がきます。ほんとあっという間で肉体を離れる前は「短い夢のようだった」と離れていく訳ですが、
肉体を離れた後にこれは逆転します。

自らを高くするものは低くされ、自らを低くするものは高くされる

こういう意味でもこの言葉は繋がっているんです。
なのでこの地上で高みに登っている人々を羨んだり、自分もそうなろうとしても手に入らないからと苦しむ必要はありません。

罪がある自覚があるなら人に知られないよう隠れて洗いざらい神様に告白して謝って繰り返さないようきちんと自身でどうしてあんなことをしたのか原因を探し原因から改めることです。

神さまが見て本当に悔い改めたと認められれば赦し聖霊を送って罪を洗い浄めてくれます。

神様は色んな権威を持っています。
罪を許し洗い清める力も持っていますし、負債分を分け与えて相殺してあげてもあり余るほどの富を持っています。

ただ、悔い改めもしない、自身の罪も認めない人にはその慈悲もかける訳にはいかないんでしょう。
じゃないと不公平になるから。

【肉眼に見える世界も肉眼に見えない世界も別々にある訳でもない】

最初からの話を総合すると、こういうことです。
なので心の居場所次第で肉体をもって生きながらにして天の存在を見たり、幽霊を見たりすることが起きますし、周りに人がいながら自分だけが見えるということが起きる。
天国や地獄やこの世界がどこに在るとは指し示すことは出来ないが、それは別々の世界というものでもなく、自身の行いや心に応じて心はその世界を行ったり来たりしている。
この肉眼に見える世界に肉体を得て生かされている期間は長くても百年そこらでとても短い。
その間も睡眠やイヤイヤ仕事しなきゃいけなったり自由に生きている時間となるとさらに短い。
肉体を離れてからの方が言い方が少しこの世界の時間感覚では違いがありますが長いです。
なのでどこに行きたいか決めたらそこに行けるように世間の人々に惑わされずに生きることです。

【罪悪には重さがある?】

これは感覚的な話です。実際に体重計に乗っても物理的には体重計に反映されません。
古代から人にはそういう感覚があります。
なので罪悪があると重さで地獄に堕ちるとか、三途の川を渡ろうとすると罪悪の重さで沈む分、衣が濡れてその重さで地獄とか行き先を決められるとか、罪悪がなければ天に昇るとか表現されるんです。
善い→高い
悪い→低い
こう捉える感覚が人にある。

【引き寄せの法則の誤り】

引き寄せの法則がどうの、スピリチュアルがどうのとおかしなことを口にしている女性を見かけたので、その誤りを書いておきます。

一般の人にどう言葉を選べばいいか悩みますが、
負は引き寄せあっても正は引き寄せ合わない性質がある。
悪いことほど続きやすいが、良いことほど続きにくい

この世界にはそういう性質があります。
それは地上を観ればその法を観ることができます。
罪悪には重さがある?の章にあるように地上には重さ、質量を持つものが引き寄せあっていますね。
一方、高い波動、粒子よりさらに高いものは質量の縛りから解放され引き寄せ合いません。

なので正しくは「どれだけポジティブな想念で物事を観ようがポジティブなものほど引き寄せ合わない法則が地上にある」
結局は「人間は求不得苦の真理(求めても思うように得られない苦しみの真理)から逃れることが出来ない。」

法則どころかその上の真理でそうなっているんです。
どれだけ願っても真理の前にはどうにもならないので諦めることをオススメします。

【霊格なんてない】

霊格なんて話をする人がいますが人間の霊に位みたいなものはありません。
あったら俺すげー偉い人じゃんwないないw
自身の背の丈、身の程をわきまえています。
おそらく霊格なんてことを言う人の中にはそんなものはないのはわかっていつつも、わかりやすく説明するためにあえてこの言葉を使っている人もいるでしょうけれど、人間の霊にはなんの権威もありません。
権威があるのは神さまのような世界全体を治めているような役割の存在だけです。
人を上下で格つけしたい動機の人は謙虚になったほうがいいです。
その心は人間以下に属しているからです。
仏教でいうと上だ下だと人をうがった見方をする心は畜生っていうんです。
世の中には人間より上の上があるんです。
気持ちはわかります、あんな非情に人殺しする犯罪者と等しくてたまるかと思う人もいるでしょう。
しかし生きながら心はどこにいるかは人それぞれなように格付けしなくてももう居場所は決まっています。
人に見えて人より高みにある霊もありますが、それは執着を離れた聖者や神に聖別された聖者であって人に見えて人を超越しています。

【天国の人も死ぬ】

俺は見たこともないし知りませんが、仏経典には書いてあって死ぬそうです。これも肉体的な死の意味ですが、寿命が人とは仕組みが違うのだけれど法を守らなかったり善い事もせず楽しみばかりに耽っていると飽きて楽しく感じなくなってきたり、福徳の財が尽きてくると身から栄光も放たなくなり弱って死ぬらしい。
それでまた相応なところに置かれちゃうんだそうな。

で、天に生と新たに命を授かって幸せな思いばっかしているので、弱ってくると衣が汚れてきたり体臭がしたり見た目も衰えるんですが、この世界の人間みたいにそうなると今まで優しく周りに集っていた人々が離れていって寂しい思いをするんですって。
この世界でも若くて見目麗しい驕りの春には男が女性に群がってくるけど大体25歳頃から男達が少しずつ引いていって40歳頃にはまったくと言っていいくらいよってこなくなるでしょ。
男もそれに似たようなものだし金があれば多少歳いっても女が寄ってくるけど金なくなった途端にすぐ逃げるように女は散るでしょ。
よく似てますよね。

その際の苦しみがそれまで幸せな思いしか知らなかった分、すんげー苦しみに感じて地獄の何倍にも苦しく感じるそうな。
しかも寿命が長い分、長くそれに苦しむっていう。

だからブッダはそれを観て天国も苦しみがあるやんけ!もうイヤや、輪廻の苦しみから脱したいと思い詰めるようになったのだとか。
ちまみに輪廻からの解脱なのか、輪廻の苦しみからの解脱なのか、どっちなんでしょうね?
意味が大きく違う。

ちなみに聖書にある神の国はその天国とはまた違う領域なんじゃないかと俺は思っています。
だって永遠の命って書いてあります。
この永遠ていう言葉も癖があって、まったく終わらない無限のニュアンスなのか、それとも永い永い寿命だけど尽きることがあるニュアンスなのか。
これでだいぶ意味が違う。

それからブッダは出家してきた僧には解脱と涅槃を目標にと指導したけれど、一般の人にはせめて天界に生を授かることを目標にと、諸々の悪を避け諸々の善を行いなさいと説いたんですよ。
だから人に合わせて教え方を変えていたんです。

イエス・キリストが弟子には具体的に説き、一般の人には比喩で説いて、人によって教え方を工夫していたように。

【自身の罪悪を放置すると必ず破滅する】

虫歯って放置しても治らないし不可逆的に悪化するだけなように、罪悪も同じです。
しかし虫歯よりひどい苦痛をもたらすことになります。
何倍と比較するのもバカバカしいほどに罪悪の結果の方が苦痛をもたらします。
生きている内に自身の罪を幼少から思い出してよく自覚して、二度と繰り返すまいと決意して、その原因を見極めて原因から改めることと、人に知られないように神さまに洗いざらい白状しながら心の底から謝った方がいいです。
本当に実在しますからね。

【この記事を書いた動機と目的】

最近、あまりに金金で殺人する憐れな人が多い。
宗教や占い師や霊媒やスピリチュアル、みんな金金金の貪欲でドロドロ。
あの長野で散弾銃で勝手に被害妄想で人を撃ち殺したやら、あれも貧乏人はどうのこうと作文に書いていて、挙げ句に見栄を張れない大学中退だから勝手に恥ずかしく思って引きこもって思い詰めて精神的余裕をなくしたから被害妄想に駆られたんでしょう。

植松聖も障害者は社会や家族の金が負担だから殺しただとか。世の中、障害者の何倍も犯罪者に金かかってるのくらいわからないものかね。
悪いことする人がいるから法律を作る人を税金で給料払って、裁判所や警察検察拘置所刑務所その警察官や弁護士に看守やらすべて税金100%ですよ?ねえ?植松くん。
犯罪のほうが障害者より莫大な社会的コストをかけてんの自覚して
9割の法律はふつうの人はそんなことしないから必要ないんだよ?
法律の9割は悪いことする人がいるから、そんなことしない人までひっくるめて規制されんの。わかる?わからない方がおかしいじゃん。
金金金金女女女女地位地位地位地位。ハア

自分で世間に染まって、世間の人々の盲目な価値観に惑わされて、勝手に失望や絶望したり、怒りや憎悪を募らせて短絡的に身勝手な迷惑行為している。

神さまはいるし、世界はこういう仕組みになっている。
これを理解していればそんな行為に走らなかったでしょうに。

普段はこんな話はパートナーにもしませんよ。
説明下手だし、理解できない人に説明するにはあまりに長くなるし、人にどうこう言える身の程でもないし、人は頑なな心があって神が言ったって聞かないし、仏が言ったって聞かない人ばかりだから俺が言ったって聞くわけがないじゃない。
だから黙って自分のことに専念してるしかないなと普段はこういう話をしないんです。

でも流石に黙ってんのもヤバいかなっていう世情だから書きました。

はい以上です。










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