ハイテンション認知症介護03
2022年2月12日21時15分
父が旅立ちました。
去年の年末に入院してから、結局父は自宅には戻ることなく、最後は眠るように息を引き取りました。病室には僕と父との二人でした。
話を2021年までもどします。父は2021年の12月に発熱のため入院しました。
12月25日 医師との面談
12月16日に誤嚥性肺炎による高熱で入院した父は、いまは熱も下がり、容態も落ち着いているとのことだった。一安心である。
というのも入院する前の父は、自分で歩いてトイレまで行くことができず、母の手だけではどうにも自宅でケアすることが難しくなっていたのだ。
加えて父は今回の入院時の血液検査で、糖尿病と診断された。そのため退院できた後も、この先ずっと糖尿病に対するケアが必要となるらしい。そうなるといまお世話になっているデイケア施設では受け入れてもらえないので、新たに別の施設を探すことになる。
つまり退院したあと、また振り出しに戻るわけだ。わっしょい!
まあこれまでもやってきたことである。退院まではもうしばらくかかりそうだし、それまでの間に次のことを準備しておけるだろう。
この日は担当の医師から説明があるというので母と二人でカンファレンスルームと呼ばれる場所で待っていると、若い医師が硬い表情で入ってきた。どうした、なんか嫌なことでもあったのか。
医師は慣れた手つきでPCを立ち上げ、カルテをスクロールしながら言う。
「お父様ですが、ご自分の力で嚥下することが難しくなってきているようでして。」
いわく、今回の入院の発端となった誤嚥性肺炎も、どうやらこのあたりに原因があるらしい。自分で飲み込めないのに食べようとして口に入れるので、息をした勢いで気管に入るのだそうな。父はそこから肺炎を起こした。
自分の意思で物が食べられないということは、つまり自分の力だけでは生きていくことが難しいということである。父よ、いいのかそれで。
こうなった場合に考えられるのは、延命措置として胃に管を通して流動食を流し込む「胃瘻(いろう)」を作るかどうかである。
胃瘻を作れば栄養は与えられるが、父のようにボケてしまっている場合、体に付けられた管を嫌がり、無理に外してしまうリスクや、そこから細菌感染するリスクが高いことも考慮すべきなのだとか。
では胃瘻を作らない場合、どうなるんですか。
「その場合、この先の栄養の補給は静脈への点滴のみとなります。ただ、点滴だけだとお父様が消費するだけのカロリーを補うことは難しいです。つまり、ゆるやかに寿命を全うされる、ということになります。」
つまり人工的に長生きさせるかそれをやめるか、なのか。そんなの本人以外が決めちゃっていいものだろうか。
母の判断
母が言うには、父がまだ話ができていた頃、いざというときにも延命治療はしてくれるなという話をしていたのだという。
たとえば延命治療をして文字通り命を延ばしたとしても、その間に介護してる側が先に逝ってしまったらどうなるのか。なるほど二人きりの老々介護にはそんな心配も生まれるのだ。
この日の父は入院してから初めてくらい調子がよく、覚醒している時間はぼそぼそと会話らしき反応すらあった。「ありがとうな」「お茶がええわ」。そんなことを口にする父を見ていると、僕も母も、延命治療をしないという判断を先生に伝えることがどうしてもできなかった。
ただ、父はずいぶん痩せていて、腕には点滴チューブが、手にはグローブがはめられていた。グローブは父が体を引っかいて点滴を外してしまうので、その予防らしい。
いまも父はもそもそとグローブをした手で点滴の管を外そうとしていた。その姿が、生きたいと言っているようにも、もういいから寝かせてくれ、と言っているようにも見えた。
別の日にもう一度専門医に診てもらい、父の嚥下能力の判定をしてもらうことにした。それを踏まえたうえで判断したい。とはいえ父の状態を見るに、あまり先延ばしにもできない。決断は2日後の医師との面談で、と決まった。
病院からの帰り、母と銭湯へ行き、帰りにとんかつを食べた。なんとなくこのまま家に帰りたくなかったのだ。本来ならば、父の今後について、しっかり話し合わなきゃいけないのだけれど、その前にいったん気持ちをリセットさせたかった。お互いに疲れ切っていた。銭湯は気持ちよかったしとんかつは美味かった。
結局この日は、この先のことを話し合わずに、家に帰って二人でビールを飲んで寝た。どんなときでもビール飲んで寝れば寝られるものなのだ。
12月26日 母との口論
親戚への連絡をめぐって母と口論に。
父が痴ほうになってから、もしかしたらその前からかもしれないけれど、両親は、父の兄弟、親類とほぼ絶縁状態だったらしい。いろいろありすぎたようなのですべては書かないが、「あちらから連絡を絶ったのだから、こちらから連絡する義理はない」というのが母の主張である。父がこの先亡くなっても連絡する気はないのだとか。
仲が悪くても実の兄弟である。父の現状を伝えておくべきなんじゃないのか。特に明日、医者と会って父の今後を決める話をするわけだから、その前にせめて知らせておくべきだろう。母はそれも頑なに拒否。
結局、僕の独断で、近所に住むおじさん(父の弟)の家を訪ね、現状を話して兄弟への連絡をお願いした。おじさんは延命の如何については僕と母の決断に任せる、と言ってくれた。
それでも母は気に入らない。誰であろうと親類に連絡すること自体が気に入らないのだ。
これまでの不義理を理由に父の現状を兄弟にも連絡しないというのは、僕にはちょっと考えられないことなんだけど、どうなんだろう。話せば話すほど理解のおよばないことを言ってくる母を、僕はこれからも支えることができるんだろうか。それともすべてを無条件にサポートするのが子の務めなんだろうか。違うよなあ、親子とはいえ個人だもんなあ。
そしてこの家はいったいどうなっているのか。複雑にからみあった親戚関係に加え、話のまったく通じない母にも腹を立て、持っていたiPhoneを床に投げつけてしまった。反省。
12月27日 延命治療を断る
14時半から医師と面談。その前に父と面会。
この日の父は終始半覚醒状態で、薄目を開けてはいるものの、こちらの話はほとんど入っていないようだった。母が父のひげをそる。
父は潔癖で完璧主義者だったため、元気だったころには無精ひげが生えている状態を見たことがなかった。
母は父に飲ませようと、家からゼリー飲料やお茶、みそ汁なんかを持ち込んでいた。しかし今日の父は口を半分開けた状態で、終始ぼんやりしており話しかけても反応がない。およそ何かを口に入れられるような状態ではなかった。細く白い腕には太い点滴針が固定されている。
医師との面談ふたたび。
父の容態を再度確認。嚥下の専門医にも確認してもらったが、やはり現状、自力での嚥下は不可能と言っていい状態であるとのこと。
加えて静脈への点滴も、今後徐々に難しくなっていくことが予想される。血管も父の体とともに老化していて、すでに見つけるのが困難らしい。今後は足の甲から入れることになるでしょう、と。
血管が取れるうちは一日1500mlの点滴を入れられるが、血管から入れられなくなると、今度は皮下に刺すことになる。そうなってくると、一日の量は最大500ml、だいたい余命は数週間ほどでしょう、と。
これらを聞いたうえで、延命のための治療は希望しないことを伝える。僕はずるいので母の口からそれが出るのを待った。医師も了承。
父について、具体的な余命宣告を聞いたのはこの日が初めてだったように思う。急に締め切りを決められたような気がして、それまでにしておきたいことを考えるようになった。待合室にもどって姉夫婦にこれを伝えながら、僕は父のことで初めて泣いた。
2022年1月 正月、母と
年が明けた。父は入院したままである。
今年はどんな一年になるんだろう。コロナの感染はいまのところ落ち着いているが、このまま終わるとも思えない。
年末に父が入院してから、母の生活は表面上安定したように見える。これまで一瞬たりとも目が離せなかった父が傍にいないのだ。体力的には楽だろう。
しかし感情は別だ。この家でひとりで年越しするのは結婚してから初めてだわ、と、母は毎日のように泣きながら電話をかけてきた。これまでがっちり共依存していた父と離れることで、母は立っていられる足場を失ったのだ。
今年は父にもまして母へのケアが必要となるのだろう。
1月3日 日常と非日常
正月は病院の面会もお休みということで、いったん神奈川に戻ると、そこには日常があった。
仕事をしてご飯を作り、友だちと話し、近所を走って猫と寝る。まるでパラレルワールドである。新幹線で2時間の場所にある別世界だ。
日常に戻っても僕の意識は愛知にあって、疲れ切った体は中身のない頭を支えるので精いっぱいだった。集中できないし、何にも興味が持てない。ついぼんやりとしてしまう。本を読んでも頭に入らないので、単語帳を持ち出して英単語を覚えたりしていた。
そんな正月休みを終えて、母が泣きながら待つ愛知へともどった。
1月11日 生命力
父の血管がもう点滴をうけつけないということで、この日から皮下への点滴へ。こうなると数週間ですよ、と言っていた医師の言葉を思い出す。
それでも父は、覚醒している時間は上体を起こすくらい力強く動きたがるようで、ベッドから落ちてしまわないよう、看護師さんがマットレスを低くしてくれた。カロリーを拒否した体なのに、その生命力はどこからきているのか。
1月12日 母の仕事
このところ母がしきりに家を片付けている。
レンタルしていた介護ベッドを引き取ってほしいと業者に連絡したり仏壇を磨いたり。今くらいのんびりしていたらいいのでは、とも思うのだけれど、何かしている方が母としては楽なのだろう。
1月13日 コロナ直撃
コロナ感染第6波が愛知にも直撃。面会が禁止となり、家族のみ週に3日、1回5分で荷物の受け渡しのみ可能となった。しかも各回1人だけである。
さいわいなことに父の容態は安定しているようだし、面会ができないとなると愛知にいてもやることがないので、僕はいったん神奈川に戻ることにした。
1月31日 平常心
神奈川に帰ってからも父の容態を毎日電話で病院に問い合わせている。
すごく親切に、昨日今日の父の様子を事細かに教えてくれる看護師さんもいれば、あからさまに面倒くさそうな対応をする人もいた。きっと病棟もコロナ対応で目がまわるくらい忙しいのだろう。
父の皮下への点滴が500mlから200mlへ。それしか入っていかないのだ。
2月8日 付き添いひとりきり
父の呼吸が浅いので、と病院から連絡。職場から直行する。
東京からだと父の病室に着くまでに3時間以上かかるのだけど間に合うのか、と心配していたのだけれど、着いてみたら父は脈も呼吸もわりとしっかりしていて、覚醒して目で宙を追ったりしていた。
容態が悪くても面会は1人ずつ、15分の制限付きである。コロナウイルス感染の勢いは増す一方なのだ。ただし病室から出入りしないのであれば、1名の付き添いが可能となった。昼は母が、夜は僕が父に付きそうことにした。
2月9日 雪
東京は雪らしい。愛知は雨です。
2月11日 緊張と緩和
付き添い交代のタイミングで、病院の隣にあるユニクロで短パンと靴を買って近くの公園まで10キロほど走った。あとでメルカリでカメラ買おうと思う。自分を保つのだ。
母が付き添いしている間は実家に一人である。たしかにこの広い家に一人は寂しい。病室にいた方がまだまし。
2月12日 父の最後
夜は僕の付き添いの時間である。
北村薫を読んでいたのだけれど、どうも日常に近い話が読んでいてつらく思えてしまい、本屋でオルハンパムク「私の名は紅」を買う。前から読みたいと思っていた古いトルコの話である。このくらい長くて遠い話の方が今はありがたいのだ。
隣の病室からはスキーかスノボの中継が聞こえていた。そうかいまオリンピックやってるのか。それも遠い話だ。
姉の家族が夜付きそう僕にと差し入れを持って来てくれた。ありがたい。
オルハンパムクは最初こそとっつきにくかったが、100ページも読んだらすっかりイスラム世界に入り込んでしまった。トルコ行きたい。
姉が差し入れてくれた寿司を食べていると、心電図をモニターしていた看護師さんが小走りでやってきた。脈が弱まっていると。すぐに母を呼ぶ。見ると父は呼吸をすでにやめてしまっていた。手をさする。まだ温かい。
母が着くまでに父の写真をいくつか撮った。カラーだと死んでるみたいだったのでモノクロで撮った。
母到着。父は心臓も呼吸も停止。手がもう冷たい。
医師到着。死亡を確認。
痴ほうになってから3年、入院してから2か月だった。今日はずっと雨が降っていた。
最後に父へ
父はボケてから3年ほどで他界したわけだけれど、この3年間は「家族だからいいや」と後回しにしてきたことが一斉に降りかかってきた期間だったように思う。
その中には永遠かと思うほど長く、つらく感じた時期もあった。でもけっきょくすべてに慣れたし、無理だと思うこともなんとかして乗り越えられてきた。家族のことは、家族になら解決できちゃうものなのだ。
最後に父へ
お疲れさまでした。あなたは僕にとってずっと謎の人物でしたが、ボケてからは、少しずつあなたの本質みたいなものが感じられるようになりました。あなたを介護する時間が持ててよかったと思います。あなたは最後まで僕のことを許さずにボケてしまったけど、僕はもうあなたのことを悪く思ってはいません。介護の時間は、いい時間でした。
※ここに書いた文章は、主に父の病室で書いたメモを抜粋してまとめたものです。時系列がぐちゃぐちゃだったり僕にしかわからない部分があったりすると思うけれど、いったんこれで公開して区切りにしたいと思います。
※僕の家族をはじめ、一緒に仕事をしているみなさん、近くの、遠くの友だちたち、気にしてくれていたみなさん。ありがとうございました。
※介護のこと、痴ほうのこと、親のこと。困ってる人いたら連絡をください。たいしたアドバイスはできないかもしれないですが、こんなことで負けちゃダメですよ。
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