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ハイテンション認知症介護

これは認知症を患っている父と僕たち家族との、ここ3年くらいの記録です。

プライベートな話なので、たくさんの人に見てもらいたいというよりは、こういう経験を必要としている人に読んでもらえたらと思っています。

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はじめに

介護に関する話は正直言って面白いものではない。かといって、こうした問題は誰もがいつかは直面することであり、避けようのない話でもある。

避けられないなら、いっそハイテンションで向き合ってやろう。そう思うことにした。

この記事のタイトルを「ハイテンション認知症介護」としたのはそういうことです。元気だしていかないと、こんなこと書いてられないですから。

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これを書いている2019年の冬、父が入る施設がようやく決まった。

入所のための手続きやケアマネさんとの面談を行うため、僕はいま実家のある愛知へと向かっている。

土曜の昼、新幹線はコロナの影響もあってほとんど人が乗っていない。遠くの席で小さな子どもが大きな声で泣いている。うちの子たちは今頃何をしてるだろうか。今日は塾だったか。

父が施設に入ることになったのは、本人の意思というよりも、僕たちの生活を優先してはいないだろうか。すこし引っかかりはしたが、それは僕が離れて暮らしているからかもしれない。

これからいったいどうなっていくのだろう。

とにかく実家に行って、父に会ってからこれからのことを考えようと思う。

2018年11月 父がおかしい

最初に「父がおかしい」と姉から連絡を受けたのは2018年11月のことだった。正直なところ僕もその前の月くらいからなんとなく(おかしいぞ)とは思っていたのだ。

電話をしてもどことなくうわの空で話に芯がない。

父「そうですな、お互い大変です。まあ元気でやっていかなあかんですね」。

相手は息子の僕なのに、まるで誰か他の人と話をしているみたいなのだ。

普段めったに顔を見せない僕に、そうやってぼやかした敬語を使うことで暗に嫌味を言っているのかなとも思ったが、父はそういうテクニカルな言動をとる人ではないように思う。

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そもそも僕と両親とは仲がよくない。それだけでなく僕と姉、さらには姉と両親とも仲が悪い。あらためて書くとどうなっているんだうちの家族は。

僕は大学を卒業しても愛知に帰らなかったことを端緒に、父と喧嘩をして、売り言葉に買い言葉、絶縁されて家を出た。

結婚して隣の市に暮らす姉も同じように、ことあるごとに両親と喧嘩を重ね、それでも僕よりずっと長く持ちこたえてくれていたのだけれど、何年か前に決定的な喧嘩をしてからというもの、もう修復の見込みはないだろうと姉は言う。

とはいえ僕らも全員いい大人である。これまではなんとなく距離を保ちながら、つかず離れずの関係を保持してきた。

父がボケるまでは。

こういった微妙なバランスの上に成り立っていた家族でも、誰かが病気になりハードな看病が必要になったりすると、わりと一生懸命まとまろうとするものなのだ。

僕からも頻繁に姉や母に連絡を取るようになったし、母も僕を頼りにしてくれた。父がボケてすぐの頃は。

このあと書くが、それから本当にいろいろなことが起こり、我が家は薄い絆を限界まですり減らし、またバラバラになる。

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診断

この頃、母はまだ父のことを「ちょっと最近物忘れがひどい」程度に思っていたのではないか。一方、父は自分の異変に気付いていたようにも思う。病院嫌いの父が、自分から脳神経外科に診てもらいに行ったのは自覚の表れだったのだろう。

MRI検査とカードを使った認知テスト、筆記テスト、それから医師との面談などから判断するに、父は初期の認知症であると診断された。

わかってはいたが医師から言われるとなかなか重いものがあった。それを聞いた父はどう思ったのか。

僕は思ったよ、もっとしっかり父と向き合っておけばよかったなと。

父について

僕はこれまで、あらゆる面で父を反面教師としてきた。

僕が子どもの頃は、父は外でも平気で機嫌を悪くして一人で帰ってしまったり、配慮なく差別的なことを言ったりする人だった。それでトラブルになったことが何度もある。

一度、近所の大人が声を荒げて家に踏み込んできたことがあった。僕が小学校低学年の頃だったと思う。父は何も言わず奥に去り、母と祖母が泣きながら謝っていたのを覚えている。

父は、子どもの僕から見てもわがままに育てられてきたんだろうな、と思う。

自分勝手で頑固、気に入らないことがあるとすぐに怒る。すると母なり祖母なりが慌てて機嫌をとってくれる。ボケる前の父は、そんな古代ローマの暴君みたいな人だった。もしかしたら当時の長男というものはどこの家でもそんなものだったのかもしれないけれど。

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認知症と診断を受けてからの父の変化は急激だった。

ちょっと前までは姉と小さな喧嘩なんかもしていたようだが、姉いわく、ある日を境に目がうつろになり、まるで何も見ていないかのようになっていったのだ、と。

僕「寒いから風邪とかひかないようにね」
父「そうですね、ありがとねえ。お宅もたいへんですが、まあ仕事に精をだしてくださいな」

こうして書いてみるとありそうな会話に見えるかもしれないが、これはおよそ絶対君主制を布いていた暴君との会話とは思えない。

受話器の向こうの父は、坂道を転がるように自我を失いつつあったのだ。

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2018年12月 徘徊

三浦雄一郎さんが85歳で南極最高峰のアコンカグアに挑戦、それを断念して下山しているというニュースをカーステレオで聞きながら、僕は入院中の父を見舞っていた。父はたしか今年で80歳である。セサミンでも飲んで三浦さんを見習ってほしいものだと思った。

2018年の秋に父が認知症と診断されてから、これまで主に母がひとりで自宅でケアしていた。それまで父がしていた力仕事は、たまに僕が行ったときにまとめて片付けた。

認知症にもいくつかのタイプがある。診断によると父のはレビー小体型認知症と呼ばれているものらしく、主な症状としては運動機能の低下、幻覚、睡眠時の異常行動などがあげられる。どれも父の状態にばっちりあてはまる。

若いころの父は登山をしていたらしい。ここまでは三浦雄一郎さんと同じなのだが、僕が中学くらいになってからは古傷が痛むといって山はやめていた。それでもすらりとした体格は保っていた。

頭は早いうちからハゲていたが、そんなものは帽子でも被ってしまえばいい。父は頭の形がいいのか、キャップみたいなものがよく似合った。愛用していたのは母がとこかで買ってきた白いゴルフ帽である。カラフルなパラソルのマークが横についていた。

父はゴルフはしないが、母が買ってくる服はゴルフウェアみたいなものが多かった。もしかしたら50歳くらいの男に、ハゲを隠しながらこぎれいな恰好をさせると誰もがゴルファーみたいになるのかもしれない。

足腰がしっかりしているため、ボケても自分でトイレに行ったり歩き回ったりすることはできた。そのため、はじめは寝たきりでいるよりケアしやすいと思っていたのだが、逆にいうと歩き回るので放っておけなかった。目を離すとどこかに出て行ってしまうのだ。

ある日、仕事中に慌てふためく母から電話がかかってきた。父がいない、と。

入院

父は母が食事を作るため、台所に立ってすこし目を離したすきにいなくなったらしい。

母は世間体を気にして父がボケていることを近所には伏せていたので、協力を仰ぐわけにもいかなかった。狭くて古い集落なので、そのあとすぐに近所にはばれるのだけれど。

僕は電話で母に指示して、近くの派出所へ行ってもらった。昔から顔なじみだった「交番のおじさん」に捜索をお願いするためだ。

交番のおじさんは、僕が子どもの頃に「落としました!」とうそついたそろばん塾の月謝を一緒に探してくれた人である。

実際はそのお金でお菓子を買ったので出てくるわけなどないのだけれど、おじさんはそろばん塾の床下まで探してくれた。この話は長くなるし恥ずかしいのでいつか機会があれば章を分けて話したい。

交番のおじさんにバイクで集落中を探してもらい、近所に住む親戚のおじさん、おばさんたちを総動員して探した結果、父は家のすぐ近くの溝にハマっているところを発見された。

脛に痛そうな擦り傷があったが、その他は元気だった。戸締りをしようとして出かけたところ、溝に落ちて動けなくなったらしい。そもそも戸締りは家の中でやるものなのでつじつまが合っていないのだけれど、僕らはもうそのくらいのことにつっこんでいられなかった。

その後も、母の運転する車が信号で止まった隙にシートベルトを外してドアを開けて出て行ってしまったりだとか、このころの父はとにかくアクティブにどこかへ行こうとしていた。仕事を退職してから趣味もなく、日がな縁側に座ってテレビを見ていた男とは思えない前向きさである。アコンカグアも目指せたのではないか。

これはいよいよ母一人の手には負えなくなってきたぞと判断した僕と姉とで、市の社会福祉協議会の認知症介護担当者に相談して、言われるがまま近くの総合病院を受診させたところ、父はその日のうちに入院となった。

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入院中に退院後の方針を考える

父は近くの総合病院の精神科に入院することになった。2018年の年末のことである。

はじめは「正月は家で迎えたいねえ」なんてのんきなことを言っていたのだが、父の状況は日に日に悪化していき、自分の排泄物を不思議そうに手に取ったり、かゆいと言っては服を破ったりするので、落ち着かせるための投薬が始まり、入院は翌年の春まで続いた。

認知症の進度とタイプにもよると思うが、父のように初期段階で入院して投薬するケースは少なくないらしい。

・幻覚や幻聴により暴れてしまう
・暴力的になる
・うつ病を併発する

初期の段階では体が動くので、意識と体力とのバランスが悪いのだ。とくにレビー小体型認知症は進行が遅く、少しずつ認知能力が低下していくので、治療に向かわせる家族は気持ちにふんぎりがつかない。

父のように自力でどこかに歩いて行ってしまう場合、安定剤や睡眠剤などを使いながら、本人が落ち着いて現状を把握できるようになるまで入院して治療することになる(病院によって方針は違うのかもしれないけれど)。

処方される薬の量はなかなかのものだったし、それを朝昼晩に小分けしてホチキス止めしている母の背中からは、さだまさしの歌が聞こえてくるようだった。

それでもこの時期、忙しそうにしている母は、なんとなく楽しそうにすら見えた。

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きっと父が病院に入院しているあいだ、母は自宅で久しぶりにある程度安心して休むことができていたのだろう。

この最初の入院は、僕も母もわりと冷静にものを考えることができていたと思う。僕はほぼ毎週実家に帰り、母と一緒に退院後の手筈を整えていた。

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退院後の父を母が自宅でケアする場合、母の負担はこれまで通り大きい。

すでに一人では手に負えない状態だったものが(母はまだいけると言っていたが、僕から見るととっくに限界を突破していた)、いくら入院して精神的に落ち着いたとはいえ、この先よくなっていくことは考えられない。

そうなると退院するまでにデイケアや施設への入居も検討していかなくてはいけない。このあたりの判断は、僕らにとってもちろんはじめてのことなので、行政のソーシャルワーカーさんにとにかく頼りまくった。

ところで、僕らがこの時期お世話になったソーシャルワーカーさんは、毎週のように東京からやってくる息子の僕がどういった人物なのかを知るため、渡された名刺をもとにGoogle検索したらしい。

すると僕が果物なんかをむかずに食べている動画が大量に出てきて笑ったと言っていた(むかない安藤という動画を毎週アップしています)。父もボケてみかんとかむかずに食っていたので同じだなと思ったのかもしれない。いらん一致である。

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デイケアや特養と呼ばれる施設に入る場合、父が退院してくる前に病院と家族、そして入居予定の施設担当者と行政のソーシャルワーカーさんとで認識合わせの会議を開いておく必要がある。

この会議で父の状態の共有、退院してから半年後、一年後にどういう状態を目指すのか、具体的な介護やリハビリのスケジュールなんかを決める。

施設に入らずに自宅でのケアを希望する場合、行政からケアマネージャーさんを紹介してもらい、その後のケアについて指導を受ける。

平行して自宅にスロープをつけたり、介護用ベッドを借りてきたり、トイレを改造したりする必要もある(自宅の改造もケアマネさんに相談したらパンフや業者を見繕ってくれた。ほとんどの物はレンタルできるので買うより借りた方がいいです)。

自宅でケアする場合、週に何度かはヘルパーさんに来てもらうことにもなる。それはいったい誰に頼めばいいのか、いくらくらいかかるのか。このあたりも行政のケアマネージャーさんに相談するとぜんぶ教えてくれる。

うちの場合は父の入院が思いのほか長引いたこともあって、施設と自宅と、どちらの選択肢も残しながら、わりと余裕をもって退院後のことを考えることができた。

どうせ順番待ちになる特養(特別養護老人ホーム=ケアを受けながら月単位で滞在できる)には、4つの施設に平行して書類を提出して、それぞれに面接まで終わらせて順番待ちの列にならばせてもらった。

一度特養に入ると症状が回復して退所していく人はあまりいない。つまり前の人が寿命を全うするまで部屋は空かないのだ。この時点で80人ほどの待機者がいると聞いた。

ここまで、介護初心者ながらもおおむね順調に進んでいたと思う。しかし、父は突然退院することになった。

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2019年4月 退院

父が突然退院することになった。

これはもちろん、父の症状が劇的に回復したからではない。認知症というのは波があって、ちょっといいときと、悪いとき、だいぶ悪いとき、これが交互にやってくる。その時、父にとっては「ちょっといいとき」だったのだろう。

入院はすでに3か月を過ぎていた。

僕も母も、正直こんなに長くなるとは思っていなかったので、その後のことなんかを考えながらも、徐々にこの生活に慣れ始めていた。

しかし認知症はじわりじわりと、父からかつての威厳やら個性やらを奪っていく。

病院の狭い個室で(僕はとくに狭いとは思わなかったが、母にしてみるといわく「牢屋のような部屋」だったと)日々縮んでいく父を見ているのは、母にとってつらいことだっただろう。

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ある日、母から電話が入っていたので、夜、帰ってからかけなおした。

父がよくなってきたので自宅でケアできると思う。とにかくもう、あんな可愛そうな環境に押し込められているのを見ていられない、退院させたい。

母はいつになく明るい調子でまくしたてた。

それは相談ではなく、母がすでに一人で決めてしまったことの報告にすぎなかった。その証拠に、僕はケアマネージャーさんにも相談した方がいい、と話したのだが、うやむやのまま翌週、父は退院して自宅へと戻っていた。

これはいくつかの点でよくなかったと今になって思う。もう少しねばり強く、あの時母と話ができなかったのか、と。

一つは父の状態が実はさほど良くなっていなかった点なのだが、それ以外にもいろいろある。

今回の退院は病院の先生が太鼓判をおして実現したわけではない。先生だって人間である、これから悪いことが起きても(ほら、僕の指示も聞かずに退院させるから)と思いたくなる気持ちがゼロではないだろう。それは今後の治療にプラスには働かない。

それから、父が正式に退院するまでに決めておこうと思っていた施設への予約が中途半端になってしまったこと。

僕としては、この入院中に父の介護度を3から4へと再申請して、それが受理されたら(父の状態から介護度4は認められそう、と病院側も言っていたのだ)施設も優先的に受け入れてくれるということなので、待機状態から一足飛びに受け入れてもらえる施設が見つかるんじゃないかと考えていたのだ。

でも母は父を病院に入れておきたくなかった。

母はこのとき、いったい父のことを第一に考えていたのだろうか。それとも自分の感情を優先してことを進めてはいなかったか。僕にはわからない。

急ごしらえで自宅に用意したもの

・介護用ベッド(レンタル)
・玄関とトイレの手すり(購入、設置)
・段差スロープ(レンタル)
・歩行器(レンタル)
・簡易トイレ(購入、設置)
・クッション、座椅子、おむつ(購入)

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僕が生まれ育ったのは古くからある町で、近所づきあいが濃く残っていた。祭りごとには基本的に全員参加、出てこない子どもはつまり出てこられない事情がある子どもなのだ、と陰で噂された。

父が入院した病院は、当時から両親がことあるごとに差別的な発言をしていた病院だった。当時は心の病について、今よりずっと偏見があったように思う。すくなくとも僕が育った時代、地域、家庭には、確実にそれがあった。

母は、単にその病院に父を入れておくのが嫌だったのではないか。

数か月のあいだ父と離れて暮らすうちに、ボケた父が家にいた頃の大変さが世間体や恥ずかしさに取って代わられ、薄れていったのではないか。

今の状態で退院させたらまた元のまま、母だけが苦労することになる。そんなの誰の目にも明らかなのに、あの家で、あの集落で、父と生きてきた母の目には、それが見えていなかったのだ。

父と母と、そして僕

父は真面目で厳しい人だった。その上病的なまでに世間体を気にする。それが原因で、僕が高校の頃はずいぶんと反発した。

高校の頃に僕が所属していたバンドのメンバーには、金髪のボーカルMくんがいた。

何かの機会に一度僕らのライブを見に来た父は「ああいうやつとは付き合うな」と言った。1曲目のイントロを聴いただけでうるさそうに顔をしかめて出て行ったくせに、である(確かにちょっとうるさい曲ではあったけれど)。

ああいうやつとはなんだ、あなたは彼の何を知っているのか。

たてつく僕に、父の言い分は「金髪だから不良だ」それしかなかった。

たとえば僕が金髪にしたとして、その僕を父がとがめるのなら理解できる。父は僕のことをよく知っているし、たぶん世間体を気にしてのことだろう。しかしMくんのことをあなたはどれだけ知っているのか。ただ単に頭が金色なだけで批判されていい人なんていないはずだ。

僕が泣きながら訴えても父は聞く耳を持たず、金髪のやつとは付き合うな、何故ならあいつは不良だからだ、の一点張りだった。

これに限らず僕は、父と建設的な議論をした記憶がない。だいたいが一方的に命令されるか非難されるだけだった。

そもそも父がボケるよりずっと前に、僕は父と喧嘩をして絶縁されていたのだが、それ以前だって会話の合計時間をぜんぶ足しても2時間くらいにしかならなかったと思う。映画1本分である。

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母は島根の田舎から仕事をもとめて愛知県に出てきた、いわゆる集団就職組である。

そこで当時若い警察官だった父と出会い、恋をして結婚した。あの父と母がどうやって恋愛関係を結んだのか、多くの子どもたちが親について抱いているのと同じ謎を、僕も持っていた。

母は言う、父と結婚したあとの私の50年間は召使のようなものだった、と。

ずっと父を支えるだけの人生だった。家では父を立て、仕事に行く父を周囲の部下たちから尊敬されるべく支え続けた。母は言う

一つもいいことなんてなかったし、たぶんこれからもない。みんなは「いつか生まれ変わったら」とかいうけれど、私は生まれ変わりたくなんてない。もうこんな人生は金輪際ごめんだ。

現状に疲れての愚痴とはいえ、これまでの人生のすべてを否定するというのは、子供にとって、聞いていてつらかった。

思うのだけれど、父と母とは共依存の関係だったのではと思う。父は母がいないと生きていけない。それは単純に、一人では食事も作らないし洗濯もしない、着替えすらできないので物理的に無理なのだ。

母は母で、そんな父の世話をすることで人生を形成してきた。立てるべき人物がいなくなると、もはやどうしていいのかわからず途方に暮れてしまうのだろう。

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こうして父は退院し、母と二人で自宅に戻った。

このあと、ゴールデンウィークに僕は自分の妻と子どもをつれて父の様子を見に行った。この時の父は言葉もわりとしっかりしていて、孫たちのことも認識していたように思う。たしかに母がいうように、この時の父は「調子がよかった」のだ。

でもこのあと、父は階段を転がるように悪くなっていった。

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2019年5月 共倒れ

夜遅くに母から電話を受けた。

父がベッドから落ちてしまい、助け上げようとした母は腰を痛めてしまったらしい。這うようにして道向かいに住むおじさんのところへ行って助けてもらったのだという。

父はこのところほとんど自分の脚で歩くことができなくなっていた。

父が患っているレビー小体型認知症というのは、体の自由も徐々に奪っていくタイプの認知症である。進行するにつれ小さな段差で転んだりする。

入院中は歩行補助器具を使って自力で歩くことができていたのだけれど、自宅に戻って母にすべて任せっきりになると、甘えがでたのか(そういう意識がまだ彼の中にあったのかどうかは不明だが)、一日のほとんどをベッドの上で過ごすようになった。自分の足でトイレまで行けないので排便はおむつを使うようになる。

その父が寝返りをうとうとしてベッドから落ちたのだという。助け上げようとして母は腰をいためた。

いくら父の調子が一時的によかったとしても、だ。すでに母ひとりではどうにもならないところまできているのは明らかである。今回のように介護者の母が腰をいためたり、なにかあればそれこそ共倒れだ。

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母は腰をいためてほぼ寝たきりだという。寝たきりの母とボケた父。緊急事態待ったなしである。

特養の順番待ちは緊急性の高さによると聞いているけれど、今の我が家がまさにハイレベルで緊急な状態だろう。

父の介護度は入院中に2から3へと再認定してもらったのだけれど、正直介護度3では優先的に特養に入ることは望めない。ほとんど寝たきりとなっている今ならば3と4のあいだくらいでは、とケアマネージャーさんは言っていたが、再び申請して受理されるまでに早くて1か月はかかる。その間どうするのか。

とりいそぎ通いのデイケアに事情を話して申し込み、平日の昼間は週3で父をケアしてもらえることになった。これでも高齢者の多いこの地区では奇跡的に受け入れてもらえたようなものである。

これは行政が紹介してくれたケアマネージャーさんが情報を集めてくれたおかげだ。どうにもならない時には行政が助けてくれるのだ。泣けてくるくらいありがたかった。

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デイケアで父をみてもらっている間、順番待ちを申し込んでいる特養の中でも印象のよかった施設から順に電話をかけた。現状、デイケアの日数を最大に増やしているのだが、もうこれ以上自宅で母がケアしていくのは難しい旨を伝える。

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この頃の父は声が出にくくなっていた。

なにか話をしたそうに口をもごもご動かすのだけれど、聞こえてくるのはかすれた声だけで、電話ではもちろん、会って話しても何を言っているのかわからないことが多かった。介護ベッドに横になりながら、たまに小さく「あかん」と言ったりしていた。そのたびに母は「あかんことなんてない!」と気丈に言う。父には口ごたえしたことがない、と言っていた母が、である。

2019年秋 ショートステイ

特養のケアマネージャーさんはすごく親身になって話を聞いてくれ、すぐに入居することはできないが、ショートステイという制度があるのだと教えてくれた。

ショートステイとは言いながら、内容は特養とほぼ同じで、月に30日間は連続してケアしてもらえるという制度である。

我が家のように突発的に状況が変わり、介護認定や審査が追いつかない人への助け船とするため、施設を数部屋、マージンとして確保してあるのだ。これを利用しながら、特養の順番が回ってくるのを待つことができる。ありがたかった、ほんとうにありがたかった。

前からお世話になっていたケアマネさん含め、新しい施設の担当者と3者で面談をして、父の状態や入居の条件等を確認したあと、すぐにショートステイが可能となった。

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介護保険とか特養とかショートステイとかデイサービスとか、高齢者介護の世界はとにかく学ぶことが多い。しかし誰もが初めてなので、必ず助けてくれる人がいる。

それは行政だったり(最初の段階では地域相談員の人が親身になって助けてくれた)、ケアマネージャーさんだったり、特養の調査員だったりする。

みんな初めてなんだからわからなくて当然なのである。それを隠す必要はないし、困っている人を周囲はそうそう見捨てない。全力で頼っていけば必ず助けてくれる。

それがわかっただけでも収穫アリである。介護はどれだけ人に頼れるか、それに尽きると思う。

2021年春 退所

父がショートステイにお世話になり始めて半年ほどが過ぎた。ショートステイとはいえお願いしたらほぼ永続的に特別養護老人ホームと同じ待遇でロングステイさせてくれるのだ。これは本当にありがたかった。

とはいえここまでの道のりはけっしてスムースではなかった。腰が痛くて寝たきりの父を介護するぎっくり腰の母。老々介護というやつである。

そんな母に離れた場所から電話で指示を出す息子。会うたびにののしりあっている母と娘。姉はこの頃、子どもの大学受験を控えていてそれどころではなかったのだろう。

特別養護老人ホームは相変わらず順番待ちのリストに入れてもらったままである。ショートステイの期間中に何度か担当者と会って話をさせてもらったが、状況は特に変わらなかった。要介護度が4まで上がると優先的に入所できることもあるようなのだけれど、現時点では3がいいところだろう。

この頃の父はほぼ自分では歩けずに車いすに座っていたが、たまに歩行器を使って歩くリハビリのようなこともしていた。ずっと座りっぱなしだと椅子と触れている場所の皮膚がすれて痛むのだ。

ひとつひとつは大変そうだが、この時期は全体としては安定していたように思う。このままショートステイを続け、いつか特養へ移ることができればいいのだ。長いトンネルの向こう側に光が見えてきたようにも思えた。

そんな折り、母から電話がかかってきた。いやな予感がした。

父の調子がいいので家に帰したいというのだ(ビンゴだ!またか!)。明かりの見えたトンネルが端から崩れていく音が聞こえる。逃げろ!いや逃げちゃだめだ、親だからな。

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父と自宅で一緒に暮らしたいという母の気持ちは痛いほどわかる。母はいろいろ言いながらも一人で家にいることが寂しそうだった。年末年始なんて特にきつかっただろう。テレビでよいお年をとか、言われるたびにリモコンをたたきつけたくなったかもしれない。

なにしろ支える対象がいないと成り立たない母の人生である。「人という字は」と金八先生は言った。確かに漢字は二次元なので支え合っていれば倒れないかもしれないが、現実は三次元だから支え合っていても前後に倒れるのだ。

今の時点で父をまた家に戻すと、同じことの繰り返しにならないだろうか。頼み込んでなんとか受け入れてもらったショートステイである。寂しいから、おとうさんが可愛そうだから、それだけの理由でまたリセットする意味はあるのか。

そもそも父は本当に母が言うように自宅に帰りたいと思っているのだろうか。

面会に行くとうつろな目をして車いすに座り微動だに動かない父が、母が言うように強い意志で家に帰りたいと希望しているとは思えなかった。それならば母の介護の楽さを優先した方が誰にとってもいいのではないか。

それについて、今回は母と長々と話した。姉とも話した。

しかしこの話し合いの途中で、姉と母はまた大ゲンカをし、決定的に決裂した。

母はいう、誰も助けてくれる人がいないなら自分で頑張るしかないのだ、と。これは離れて暮らす僕への不満でもあったのだろう。それを言われると返す言葉がなかった。

確かにがんばれる範囲ならば、母が言うように好きなだけがんばればいいと思う。

しかし母も高齢である。苦労だけが母に降りかかるようであれば、それは手放しで勧められない。

帰ってきた父はまたベッドから落ちるかもしれないし(そうならないように今回は柵を付けたけれど)母のぎっくり腰が再発するかもしれない。そうなったときに、今の状態をまた再現することができるだろうか。

施設に聞くと、一度退所したあとは手続きやら面談やら、また一からやり直しとなるらしい。次にショートステイをお願いするときにはおそらく別の施設に入ることになるだろう、と。

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それでもいいから父を家に連れて帰る。母の意思は固かった。というわけで2021年春、父は再び自宅へ戻ってきた。もう自力で歩くこともトイレに行くことも、僕が見ている限り母を妻として認識することもままならない状態で、である。

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2021年 現在、そしてこれから

ショートステイから戻った父は現在、週三回のデイケアと、夜は母による介護、これに月に数度のショートステイを組み合わせて実家で暮らしている。これはいちおうの安定といっていいのかもしれない。

父の状態はほぼ横ばいである。ここまでの変化が急だった分、痴ほうの進行が止まったようにも思えるが、もしかしたらそれは僕たちがわかっていないだけで、父の中での認知度は日ごとに落ちていっているのかもしれない。

たまに母から泣きながら電話を受けたりもするが、最近では何か起きても、どこに頼ればいいのかがわかるようになってきた。

小さな問題なら近所の親戚のおじさんへ、どうしても男手が必要な場合は交番のおじさんへ、様子がおかしい時は病院へ、手続き関連はケアマネさんへ、日々の愚痴はテレビか息子へ。

これまで行政手続きは時間をとられるだけの必要悪だと思っていたが、逆に時間さえかければなんとかして助けてくれることもわかった。この国は十分に高齢者にやさしいと思う。

コロナ後の世界で

父がボケてしばらくしてから、世界をコロナウイルスが襲った。

東京には緊急事態宣言が出され、僕は在宅勤務になり子どもたちの夏休みは延長された。そうこうしているうちに愛知にも緊急事態宣言が出され、高齢者施設にはいよいよもって面会にも行くことができなくなった。

僕も2020年の11月を最後に、もう10か月ほど愛知に帰っていない。

2018年の年末から2019年の初頭にかけて、僕はほとんど毎週のように愛知に行っていたので、あの頃から考えると環境ががらりと変わった。

あの頃は疲れ切っていてあまり考えられなかった。僕は仕事として「おもしろ記事」を企画執筆、編集しているので、自分のプライベートがどうあれ、記事は書かなくてはいけない。

しかし、半裸の父が迷子になって母が泣きながら捜し歩いているような状態で、である。面白い記事なんて書けるものだろうか。

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そのころに僕が書いていたものをいくつか読み返してみた。

山口県を取材していたり
https://dailyportalz.jp/kiji/jimoto_dayori_trip-in-yamaguchi
毎日の弁当作りをふりかえったり
https://dailyportalz.jp/kiji/my-three-year-history-of-bento
サラダを炒めたり
https://dailyportalz.jp/kiji/stir-fry-salad

わりと普通に書いていた。

僕は会社では広告営業の担当でもあるので、年度末には業務が立て込んでくる。まだコロナで景気が落ち込む前である。この時期にはクライアントの担当者と、毎日のように営業案件の打ち合わせをしていたように思う。

父がボケていても、介護する母が痛む腰を押さえて泣いていても、離れたところで暮らす子どもはこれまで通りの生活をしているのだ。

これには少なからずショックを受けた。同じ時代を生きているのに、物理的に距離をおくだけでこんなに切り離して考えられるものなのか。

それとも、僕は冷たい人間なんだろうか。

コロナの広がりで愛知に行けなくなった時、どこかほっとしている自分がいたのも事実である。

***

父は81歳、母は72歳である。僕はいったいこの先何度彼らに会いに行き、あと何時間話をすることができるのだろう。休みの日に本屋で本を選んでいたりすると、ふとそんなことを考えることがある。

そんなことを考えながらも僕は家に帰ってコーヒーを入れ、音楽を聴きながら買ってきた本を読む。翌日になったら取材をしておもしろ記事を書く。

日々は続く。

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痴ほうに限らず、歳を取ればだれでも体のどこかが悪くなっていくものだ。それが自分の身に訪れたとき、僕たちは何を思うのか。子どもたちに何を伝えるのか。何をしてほしいのか。彼らに冷たくされたら、どう感じるのか。

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これを書いている今も、父は天井を見つめ、母は痛む腰をさすっているのかもしれないのだ。

2021年9月

ハイテンションを保てなくて申し訳なかったなと思っています。続きはまた1年後くらいに書きます。

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