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ハイテンション認知症介護02

「いまお父さんといっしょに死のうと思ってたところよ」

憔悴しきった母の声は電話越しにも小さく縮んでいた。認知症の父は徐々に生きる力を失いつつあり、父を支える母の負担は増え、僕はいやんなって酒ばっかり飲んでいる。そんな2021年の年末である。

2021年10月 要介護度が3から5へ

父の要介護度が前回認定を受けた3から5へと上がった。前回の認定は2020年のはじめだったと思うので、この1年半の間に2段階上がったことになる。上がったというより、いろんなことができなくなったから下がったと言った方が感覚的には近いのだけれど。

行政の定める要介護度は1から5まであって、専門の方が面接に来て客観的に判断してくれる。この要介護度の段階によって受けられるケアの内容や入ることのできる施設が変わってくるのだ。僕の父のように在宅ケアの場合は、支援の限度額や保険の給付額などが変わる。

要介護度3というのは一人での歩行が困難で、食事などの日常生活にも誰かの支えが必要となる状態。すこし前の父がその状態だった。

要介護度5となると、ほぼ寝たきりで日常生活のすべてが困難な状態、ということである。今の父の状態がこれ。

自分で食事ができなくなった。

話をすこし戻そう。

2021年10月 緊急事態宣言が解除される


2020年冬から21年秋にかけて、神奈川県に住む僕はコロナを理由に実家のある愛知へ帰ることを控えていた。

もちろんこれは「自粛」であり、新幹線は走っているし道はつながっているので帰ろうと思えばいつでも帰れたわけだけれど、世間の状況を盾に、僕は実家に帰らなかった。

両親のことは常に気にはなってはいたけれど、父は認知度こそ低下しているものの体はまだ元気で、つまり急を要する状態ではないだろうと思っていたのだ。

そして1年。緊急事態宣言が解除されたことで県をまたいでの移動が人の目を気にせずにできるようになったのを機に、重い腰を上げて帰省すると、久しぶりに会った父は、小さくしぼんでしまっていた。

最初人違いかと思った。

父の顔からは表情が消えていた。話しかけるとたまに薄目を開けるが、その目は濁っていて僕を見ていない。高齢者にとっての一年というのはこれほどまでにインパクトのある期間なのか。

母曰く、もともと70キロほどあった体重が、50キロまで落ちたのだと。なんでもおおげさに言う母である、去年の時点で70キロもあったとは思えないが、確かにこの1年で父はひとまわり小さくなった。

父は家では興味を持って好きなもの(ヨーグルト、プリン、栄養ゼリーなど)を食べるが、週に3回お世話になっているデイサービスでは食事の補助が手薄なので食べさせてもらえていないのではないかと。

「けっきょく身内じゃないと、やってくれないのよ」

実際どうなんだろうと施設の担当者の方に聞くと、父はどうやらデイサービス中、ほぼずっと軽く眠っているようなのだ。眠っている人に無理に食事をさせることはできないのだろう。

体重が減ったのは心配だが、それ以上に父の目に力がないのが僕は気になった。

ここに車いす用のスロープを取り付けた。スロープも車いすも行政からのレンタル。

自分の力で立っていられない父は、もちろんトイレまで歩くこともできないので、排泄するときにはおむつの中になる。見るに、本人の意思で排泄のタイミングを選べているわけではなく、パッキンを忘れた水筒を横にしてしまったように、たらたらと少しずつ排泄し続けているようである。

今のおむつは優秀なのでかなりの包容力があるのだけれど、それでもだいたい4~5時間おきにいっぱいになるので交換する必要がある。まったく動く意思のない人のおむつを替えることがこんなに重労働とは、僕も母も知っているようで知らなかった。

紙おむつも申請すると行政から補助金が出ることがある。
とにかく使用量がすごいので頼れるところは頼るといいと思う。

見下ろす父の足はろうそくのように白くて細いのに、どこにこんな重さが潜んでいるのだろう。意思を失うと人は重くなるのだろうか。意思というのは人の体を上へと引き上げる力なのだろうか。

とにかく、もう母一人の力ではおむつを替えられないので、昼間はデイサービスにお願いし、夜はおむつ3枚重ねで臨み、朝いちばんで施設の職員さんが手伝いに来てくれるまで待つことになった。

この状態になってようやく母にも(これはもう手に負えない)という認識が芽生え膨らみ、最後まで家でケアしたいという思いを越えた。

「しっかりせんとあかん」母はよく父のことを叱りつけているが、父の耳には入っていない。

いまのまま自宅でのケアを続けるのは難しいということを母に話しても意地になって聞いてもらえないことが多いので、ケアマネージャーさんと母と僕とで面談の時間を作ってもらった。ケアマネージャーさんにこちらの希望を伝えるふりをして、実際には母に話を聞いてもらうのだ。

面談の結果、平日は毎日デイサービスに通い、施設のキャパの空いている日にはショートステイをお願いしつつ、その間に受け入れ可能な特養を探す、ということになった。

いま3行で書いたが、ここまで決めるのに耳が痛くなるくらい電話を掛け、痔が悪化するほど愛知を往復した。でもケアマネージャーさんをはさんで話を進めたのは今年の僕の一番の手柄だと思う。親というのはだいたいにおいて子どもの意見なんて聞かないものなのだ(自戒を込めて)。

特養(特別養護老人ホーム)への申し込みは2年前から4つの施設に平行して出しているのだが、父の要介護度が5になったことで、あるていど優先して入所が可能になりそうとのことだった。遠くに光が見えた。

父がたまに何もないところを指さしているのは、きっと何かが見えているんだろう。
幻覚幻聴はレビー小体型認知症の特徴である。

2021年11月 母の不満

母の母、つまり僕にとっての祖母は島根にいて、今年で98歳になる。僕は2年くらい前に入院した従弟を見舞いがてら会ったのだけれど、これがびっくりするくらい元気なのである。腰が曲がっていて耳は遠くなっているものの、なにしろ目力(めぢから)がすごい。見えてないようできっと家のこと全部見えてる。

「結婚するときはおとうさん、年に一度は顔を見せに帰ります、なんて島根の両親に言ってたのよね。でもそんなの最初だけだったわ」

母は父の介護が始まってからはもちろんのこと、もう10年以上島根に帰っていないと常に不満をもらしていた。

島根に帰りたいなら父を施設にお願いしている間に飛行機を手配するから一緒に行こう、と母に提案したところ「帰りたいわけではない」のだと。なんだよ、どっちなんだよ。

地方の田舎なのでわりと広い庭があるのだけれど、庭は定期的に手入れをしないとジャングルになるので注意だ。

3人姉妹のまんなかだった母は、子どもの頃から何かにつけて中途半端に手を抜かれてきた。それを今でも根に持っているのだという。

母の話す子ども時代のエピソードはどれも強烈で、同情を誘うためにはなんでも大げさに言う母なのでどこまでが本当なのかはわからないけれど、そりゃあ確かに手放しに帰りたいとは思わないよな、と納得してしまう部分もある。小学校の頃に宗教にかぶれていた親に、雪の降るなか滝行へ行かされた話とか、すごいからいつか別のところで書きたい。

それでも祖母も98歳である。そろそろ無理にでも母を島根に連れていった方がいいのかもしれない。

2021年12月 父の前歯が折れる

ショートステイから帰ってくると、父の前歯が折れていた。職員さんが言うには、とくに転んだりぶつけたりしたわけではないのだが、自分で口から歯のかけらをぷっと吐き出したのだと。

父はもともと歯並びが極端に悪い。本当に、びっくりするほど歯並びが悪い。最近の研究で、歯周病が認知症と深く関係している可能性がある、というものがあったが、もしそうだとしたら、父なんて真っ先にボケるだろう。実際ボケたけど。

あの地獄の歯並びがいまどうなっているのだろうと、父の口の中をおそるおそる見てみると、前歯だけでなく、他の歯たちも押したら動くくらいにグラグラだった。完全に耐用年数を過ぎている。父はもう十分に頑張ったのかもしれない。

におい

週末に父の介護をしていると、帰ったあとも特有の「におい」が鼻の奥に残る。消毒液と排泄物と汗と母の料理が混じったような「におい」。

もしかしたらそういうものを嗅いだという「記憶」だけなのかもしれないけれど、東京で仕事をしていても、ふとしたときにその「におい」が思い出され、そのたびに父の白くて細った太ももがまぶたに浮かぶのだ。

父は今日も寝ているのだろうか、母は今日は大丈夫か。この「におい」のおかげで頭の半分くらいは常に愛知にある。それを振り払うためにたまに走る。でかい音で音楽を聴きながら10キロくらい走ると、だいたい気持ちが晴れてくる。

こうやって走ることで「におい」を頭から振り払おうとしている僕には愛がないのだろうか。僕がこうやって離れた場所で愛だ情だと頭を悩ませていることも、父にはひとかけらも伝わっていないのだろう。だったら割り切ってしまえばいいのだろうか。わからん。

2021年12月16日 父発熱により入院

父が発熱したと母から連絡を受ける。念のため病院で検査してもらったところ、誤飲性肺炎と診断。この時点で熱は39度を超えており、対応できる病院へ搬送され、そのまま入院となった。

この前会ったときに鼻水をたらしていたのが気にはなっていたのだけれど、頭を触ってもそれほど熱くはなかったように思う。いや、39度も熱があればさすがに僕らも気づくだろう。血中酸素濃度がかなり低下しているとのことで、しばらく入院することになるらしい。

母に持たせたiPhoneから10回以上入っていた着信に追い掛け回されながら得た情報が、ようやくここまでである。母は興奮しているのかパニックに陥っているのか、言っていることが要点を得ない。それでも

「でもあなたはすぐに帰ってこられないでしょう。ならしかたがないわ」
と、会話の最後はいつも小さな嫌味で締めくくる。こうやって誰かになにかを押し付けようとしてくるうちは、母はまだ大丈夫なのだろう。

2021年の終わりに

「病院に行っても面会すらできないのでもうだめかもわからんわ」という母に、もうだめなら余計に面会できるはずだから大丈夫だろうと思いつつも、それを母にいくら伝えても「どうして私にばかりこんな悪いことが起きるのかしらね、死にたい」ばかり言って埒が明かないので病院に直接聞いた。

先生いわく、父は肺炎患者なのでPCR検査の結果が出るまでは家族とも他の入院患者とも隔離させてもらっていると。いまは熱も落ち着いていて、ただ痰がからむので吸引が必要で、抗生物質を投与しながらあと1~2週間は入院してもらうことになります、とのことだった。急を要する状態ではまったくないので大丈夫ですよ、ははは。

って言ってたぞ、母よ。

こうして我が家は、暗闇の中をもがきながらも今年をなんとか乗り切り、希望に満ちた2022年を迎えようとしている。長い長い一年だったけれど、たくさん助けてもらい、たくさん勉強した一年だった。なんだかわからないけれど、来年にはちょっと期待している自分がいます。

愛知からの帰りの電車で書いています。

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