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分別と認識
生と死
善と悪
美と醜
明と暗
有と無
人間は意識的あるいは無意識的に、あらゆるものごとを分別して観ています。
分別は認識を促す一方で、対立構造を生み出す危険性を孕んでいると言えます。
分別による認識に囚われている限り、ものごとの本質は観えてこないでしょう。
例えば、生と死を認識しようとしたとき、「生=誕生・素晴らしいもの・尊いもの」「死=終焉・悲しいもの・忌み嫌うべきもの」と、私たちはどうしても考えてしまいがちです。
もしそうは考えないとしても、逆に、「生=終焉・悲しいもの・忌み嫌うべきもの」「死=誕生・素晴らしいもの・尊いもの」と、考える人はさすがに少ないのではないでしょうか。
しかし、このどちらの見方にも実際のところ、大差はないのです。生と死をどのように捉えようと、分別による対立構造を前提とした認識においては、どちらもその本質を観ているとは言えません。
ではどうすれば良いのでしょうか?
答えはとても簡単です。それは、常に自問することです。私自身、色々と難しく考えていましたが、最終的にこの答えにたどり着きました。人がどう言っているだとか、一般的にはこう考えられているだとか、そんなことは一切関係ありません。そんなことを気にして振り回されている暇があったら、自己と対峙し、自分自身を問い質すべきだという思いに至りました。
自分は、ものごとのごく表面的な部分だけを観て理解している気になってはいないだろうか?あらゆることに対し、常にその視点を持つことが重要です。
例えば「現実」という言葉を私たちは日常的に使いますが、あなたは「現実」というものを正確に定義することができるでしょうか?
一度目を瞑り、ゆっくりとあなたが想像するところの「現実」というものを頭の中にイメージしてみて下さい。
あなたが今思い浮かべた「現実」が、本当に「現実」であると果たして言い切れるでしょうか?ひょっとするとそれは、あなたがそれを「現実」だと思っている、あるいは思い込んでいるだけの「何か」かも知れません。
「いや、そんなことは絶対にない、これこそ紛れもない現実だ。」
そう自信を持って言い切れますか?
私に答えるのではありません。自分自身にその疑問をぶつけてみてください。自問してみてください。
身の回りにある一つひとつのことを、ただぼんやりと見て、見過ごすのではなく、積極的に見つめてゆく。あらゆる角度から深く掘り下げてゆく。そのようなことを繰り返し、繰り返し行うことで見えてくるものがきっとあるはずです。
つまり、私たちは自己と対話することによって、分別による認識から自己を解放してゆくことができるのです。それはそのまま、自分自身の「本当の姿」を明らかにしてゆくことにもなるのです。
この世界には
生も死もない
善も悪もない
美も醜もない
明も暗もない
有も無もない
この世界には
この世界すら
存在しない
あるのはただ
それがあると
信じて疑わぬ
愚かなわたし
あるいはそのわたしというものも
本当に存在しているのかどうか、
甚だ疑わしい限りである……
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