見出し画像

知識、知能、知性、その先にあるもの。


 知識というものは生きていく上で非常に重要である。と言いたいところだが、それは個々人が決めるところであり、彼らがどう生きるか(どう生きたいか)によってその重要度は自ずと変わってくるだろう。知識は詰め込めばそれなりに蓄えることができる。一昔前の受験勉強などがそれである。しかし、ただやみくもに蓄えれば良いというものでもない。栄養も摂取すべき時と量を誤れば、ぜい肉に変換されるか排泄されるだけである。何事においてもただ知識ばかりを頼み、行動が伴わない人は「頭でっかち」という不名誉な名で呼ばれることもしばしば。そしてそういう類の人たちに限って、なぜか非常に自尊心が高い場合が多いものだから何とも厄介である。人は時に柔らかな親しみを込めて彼らのことを「知識人」と呼ぶ。

 知識はやはり活かさねば意味がない。この知識を活かす能力のことを「知能」と呼ぶ。よく知能とは「すでに解がある問い」に対しその「決められた解」を導き出す力と言われるようだが、私は必ずしもそうとは限らないと思う。これはどうやら、知能とは何らかの評価尺度で測ることができるものであるという前提から来ているようだ。知能指数などがそれである。もしそうだとしたら、目の前の問題をさらに深掘りし、本質的な課題を抽出したり、全く新たな着想を得たりする能力も私は知能と呼んでも良いと思う。いわゆる諸々の「応用力」というやつだ。これまではこのような能力を「知性」と呼んでいたようだが、昨今、人のさまざまな能力を数値化する手法は大変発達し、複雑化している。そのおかげで、知能に属する範囲がずいぶんと広がったと言えるだろう。

 では、人は知能さえ高めればそれで良いのかと言うと決してそうではない。人が人として生きるために、最終的に問われるのは、その人の人間性をも包括した「知性」と呼ばれる特性であろう。たとえ多くの知識がなくとも、優れた知能がなくとも、知性を纏っている人がいる。優しさ、寛容さ、公平性、柔軟性などに裏付けされた思考力や深い洞察力、冷静な判断力を持つ人がそれである。人の一生とはつまるところ、この知性をいかに育ててゆくか、それに尽きると感じている人も多いだろう。しかし、その思いに反し、実際、教育現場や職場で求められるものは、まずは知識、次に知能という場合が多いのは不思議なことである。それは、知性は可視化できるものでも、数値化できるものでもなく、その人から「そこはかとなく漂ってくる」ものであるからかもしれない。そういうものは、我々が人間生活を営む現代社会という舞台において、なかなかに推し量り難いものである。とは言え、多くの人は自分の人生に真剣に向き合い、より善い人生を送りたいと願えば、自ずと知性をこそ磨いてゆくべきだという結論に至るだろう。

 となると、知性こそが人間が到達し得る最上の高みなのだろうか。少し話は逸れるが、私は多くの動物、とりわけ馬には人間を上回るほどの知性を感じる時がある。彼らの澄んだ瞳が見つめる先には、我々人間では到達し得ない純粋性の無碍なる地平がどこまでも広がっているように思えてならない。同様の胸懐は、詩人石垣りん氏による「天馬の族」という作品に実に豊かに展開されている。我々人間においても、かかる知性の研鑽こそ肝要であるということに特段異論はない。事実、大半の人の人生はこのあたりでとどまる場合が多い。

 知性をいかに高めても、それだけではどうしても超えられぬ一線がある。それを超えるために不可欠なものが「知恵=智慧」である。智慧とは、人智を超えたものに対する真摯な「うなずき」である。キリスト教ではこれを「faith」とも、仏教(特に浄土真宗)では「信心」とも呼んでいる。これがなかなかに難しい。知識、知能、知性を総動員させたところで容易に智慧は獲られまい。人間の論理的理解や理知的了解に基づいた認識にとどまる限り、手も足も出ぬ領域である。「人は南無阿弥陀仏に救われる」と聞いて何の疑いもなく「その通り」とうなずくことはまずできまい。しかし、信心という智慧を賜った人々にとって、これは疑いようもない事実となるのだ。自ら信じる(信じこむ)という類のものであれば崩れもしよう。智慧とは人智によって獲得するものではなく、如来より賜るものなのだ。それを真宗では、「絶対他力」と呼ぶ。これを非現実的な迷信と笑い飛ばす人があれば、まずは己の信じるその現実とは何なのかを再確認することから始めるべきであろう。世界を知るとは、自分が世界をどのようなものと認識しているかを知ることに他ならない。

 我々人類は言葉を持つことで複雑な思考力を獲得した。しかしそれは同時に我々の心に「分別」という大きな迷いをもたらすこととなった。本来世界は「一切」「真如」である。しかし、言葉によって分解され、分類され、分断された世界においては、あたかもすべてのものは独立して存在しているかのように振る舞うであろう。この見方が我々のいわゆる「常識」を形作る根本となっているのである。つまり我々は、「自分」という固定した存在が、同じく「世界」という固定した、誰にとっても共通の「現実」を生きているかのような錯覚に陥っているのである。そのように分別されたものに何ら実存はないのだ。この錯覚に気づかずに一生を終える人も多いだろう。自分は個としてひとり独立して存在している。この容易に引き剥がすことのできない自我という手強い錯覚から自己を解放し、分別という迷いから目を覚まさせてくれるものこそ智慧なのである。

 では、智慧とはどのようにして賜るのか。それはまず問いを持つことから始まる。自分とは何者であるか、どこから来てどこへゆくのか。この人間の根源を見つめた生死の問いこそ、広大無辺なる智慧の世界へ透過するための唯ひとつの扉なのである。蓮如上人はこれを「後生の一大事」と呼び、信心ひとつでそれが解決される道を示した。信心を賜ることでしか救われぬ自分とは如何なるものがらであるか、真宗では特にそのことにやかましい。つまり出離の縁なき(苦しみの輪廻から永遠に抜け出す手がかりのない)凡夫、愚者である自己を発見することから信心への歩みは始まり、やがて智慧の実践へと展開してゆくのだ。死ぬまでに自分が現実と思っているこの世界で何を成し遂げるか、つまり「どう生きるか」を探求することばかりに囚われていては、自分が人間として生まれてきた本当の意味を見出すことは難しいだろう。もし今そのことを少しでも気掛かりに思う心があるならば、それは紛れもなく僥倖であり、絶対に手離すべきではない。

本来、問いに活きるのが人間なのである。人間とは省みる者との謂(いい)ではないか。だから問いが切実であればあるほど人間は人間に成り切る。

柳宗悦 【妙好人の入信】より

 真理は2600年前に釈尊が余すことなく説き示してくれている。それは七高僧に受け継がれ、親鸞聖人と数多の先人たちによって現代に生きる我々にすでに届けられているのだ。それを自身の分別心で了解する必要もなければ、納得する必要もない。ただ知って、うなずけばそれで良いのである。


仏智を笑う愚か者
仏智と笑う愚か者

私は後者で在り続けたい
この命の続く限り



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?