「僕が跳びはねる理由」を映画館で見ました(その2)
映画「僕が跳びはねる理由」では、5人の重度の自閉症の青年たちの生活がクローズアップされています。
※前回のnoteはこちらです。
この前のnoteでもご紹介したインドのアムリットさんは人物画を描くアーティストですが、絵を描いている最中に、とても苦しそうな表情をするシーンが出てきます。
それを見て、「つらいことを思い出したのかな」「嫌なことがあったに違いない」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
その人の心の中は本人にしかわかりません。だから僕の意見も想像でしかないのですが、アムリットさんは、絵を描くのが楽し過ぎて苦悩に満ちた表情になってしまっているような気がします。
なぜかというと、これまでにも心のままに喜び過ぎて信じられないくらいの興奮状態に陥ってしまったことがあるからだと思います。一所懸命に自分を抑えないと、絵を描くどころではなくなってしまいます。
僕にも同じような経験があります。嬉しいのに嫌がっているかのように大騒ぎしてしまうのです。
その様子を問題行動だと判断されるのは困ります。
「こんなことをさせてはいけない」「これは、この子には合わない」と周りの人に思われたら、どうしようもありません。コミュニケーションできなければ言い訳することもできないからです。
シャボン玉をしているイギリスのジョスさんの姿にも心が動かされました。シャボン玉をつくることは僕にもできることです。ふわふわと風に流れていくシャボン玉は、幻想的でとても美しいです。見ているだけで心が癒されます。
けれど、ここでのジョスさんの目的は、できたシャボン玉を壊すことでしょう。
丸いシャボン玉を指ではじくと、シャボン玉は消えてしまいます。一瞬で視界から消え去るのです。パンという音にならない音を立てて。
消え去るからつくります。そして、また順番に指でシャボン玉をつつきます。
パンパンパン、パンパンパン。
なぜこんなことをしているのか明確な理由はありませんが、シャボン玉を壊している間は、壊すことが自分の仕事なのです。これは誰かのためになるとか、生産性のある作業ではありません。でも今、目の前にあるシャボン玉を壊せるのは自分だけなのです。ジョスさん自身もわかっているでしょう。
僕は、意味のない行動をする意味を考えることがあります。その行動のほとんどは自分のためだと思うのです。
心から楽しんでいるわけではありません。そうすることで自分を維持できているという感じではないでしょうか。
やらなくてもいいけれど、やった方がいい。自分が落ち着くからです。
そんな様子を見た人は、「それが好きなんだね」と言いますが、これは好きという感覚なのだろうかと僕は複雑な心境になります。
行動に意味づけをするのは誰のためでしょう。
何かをやるときに生活の大部分を占めるのは、好きでも嫌いでもない行動ではないかと思うのです。
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