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「みんなで食べると美味しい」という謎理論

当方高校2年生、友人も多くなく、家族で食べることもあまり無いため一人で食事をとることが多い。
ある日予備校の自習室でセブンの唐揚げ棒(世界一うまい)を貪ってる時、何故かわからないがいつの日か母がよく言っていたこと思い出した。

「やっぱりご飯はみんなで食べた方が美味しいね!」

...言うほど美味いか?小学生のクソガキながら思っていた。
しかし、そんなことを口に出してしまうと、雰囲気も悪くなるだろうしその美味しく感じる理由も言語化できないだろうと思って黙っていた。
そして、それを思い出した最近変わらずこう思うのだ。

いや、そんなわけないだろ。

正直、この謎言説は自分の母だけが言ってると思っていたが、気になって検索をかけると驚いた。サジェストには「みんなで食べると美味しい なぜ」とか「みんなで食べると美味しい 意味不明」などが表示された。

そうよなァ〜!意味不明よな〜!

ただ、なぜこんな意味不明な言説が広く広まり、なぜ我々の世代がそう教育されてるのか興味があった。以下、この謎理論のロジックについて自分なりの解釈である。

1.「みんなで食べる」から美味しいわけではない。

まず、「みんなで食べるとおいしい」という文字に隠されている「見えない前提」について考える。まあズバリ言ってしまえばここで言われている「みんな」とは「親しい者同士」と大まかに言える。
だって、嫌いな人とか、先輩の付き合いでの食事ってクソまずいからね。

2.やはり言葉に出すことはすごい。

前述した通り、「みんな」とは「親しい者同士」という前提で書くが、ここでもう一つ追加したいステータスは「料理の感想を気楽に言い合えるくらい」というものである。正直これがこの謎理論の核心であると思う。
料理に対して感じた感覚を言語化し相手に伝え、それが相手も同じであったなら共感に快楽を感じる、というか。訳がわからないので、以下。

料理を食べる。
(美味しいという感覚が脳に伝わる)
(感覚を相手にわかりやすく、かつ自分の感想を加えるための言語化作業)
「う〜ん、やっぱりこのざらざらした食感がたまらんよね、これで100円はすごいよね。」(発声)
「え!私も思った!やっぱりダイソーってすごいいい店!また来よ!」(共感)

こいつら食べてんのタワシか?
と、この様に上手くいくと「味覚→言語化作業→発声→共感」と一回の食事で思考快楽四コンボが発生する。つまり、
「みんなで食べると美味しい」を常識という色眼鏡を外し見たらば

(料理の感想を言い合えるほど親しい人に限定するけど)みんなで食べると(感想を言い合えてそれにあなたがワンチャン共感して快楽を得られるから)美味しいね!」

ということである。食事とは空腹を満たすだけでなく同席している人の感想を「いいね!」する小SNSみたいなものとも見れる。一人でいやこの値段でこの満足さの唐揚げ棒は激エグ!なんて言っても虚しく唐揚げ棒は冷めるばかりだ。

3.強制させられた食事の場

さて、謎理論についてのロジックは以上であるが、これが何故私たちに教育されているのか?ざっくりな予想だが「みんなそこまで考えてないのではないか」ということで身も蓋も無い予想だ。

まあだって、某起業家のなんたらエモンさんが「野菜には食物繊維とビタミン・ミネラル、しかも旨味成分であるアミノ酸が含まれてて美味しいから食べるの!!」なんて言い出したら不気味だし。

つまり「なんかわかんねえけどみんなで食べると美味しいな…」から「じゃあ自分の子供にも美味しいと思って欲しい!」となり「みんなで食べると美味しいからみんなで食べるの!」みたいな謎教育が生まれたのでは無いか?

こうして生まれた強制された食事の場というのは強制してる方しか楽しく無いので我々の世代が親になった時この謎教育が抹消されることを願う。

さいごに

久しぶりに文章を書いたのでかなりめちゃくちゃ構成で書いてて申し訳ない。
一見自分は「みんなで食べると美味しい理論」をかなり嫌ってるように見えるが、そうでは無い。
自分が好きなインドカレーを友人に紹介して気に入ってもらえた日のカレーはいつもより美味かったし、好きだった子と行ったコメダ珈琲の普通だったら絶対に頼まないような値段の海老グラタンの味もしっかり覚えている。人間が社会的動物である限り「みんなで食べると美味しい理論」絶対に覆せない。

自分が真に嫌いなのは「みんなで食べると美味しい理論」を教育し、それを人間社会の善とする風潮である。ひねくれインキャなのでいちいち世間の風潮に異議を唱えたいのだ。

だから、あの、全然、いやもっとみんなご飯誘ってください。
誰も知らない鰻屋とか、純喫茶とか行きたいです。

おわり。


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