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「詩人のことば、神経心理学者のことば、心理治療家のことば」~心理検査をまとめるために

 このノートは、霜山徳爾先生の言葉から考えた、心理検査のついての私見をかいたものです。
 こんな言葉があります。

  心理療法にとって、何より望ましいのは、詩人と神経心理学者と心理治療家とが同じ言葉を語ることである。

霜山徳爾著 「素足の心理療法」p322
(「多愁多恨亦悠悠 霜山徳爾著作集6」所収)(2000,学樹書院)

 いったいどういう意味なんだろう、なんでそれが大切なんだろう?ずいぶんとながいあいだよくわからないでいました。なんか大切そうだし、でもわからない。
 最近、一つの理解にいたったようにおもいました。もっと深みと広がりのある意味かもしれないけれど、現時点での霜山先生の問いへの応答。

神経心理学者の言葉

「神経心理学者のことば」これは脳神経系を土台とした言葉でしょう。前頭葉の機能の低下があるのか、海馬の萎縮が考えられるのか。ダイレクトには認知症の検査や、高次脳機能障害の臨床の現場での言葉でしょう。
 普段の心理臨床場面では臨床家の念頭にこれらの言葉が強く出すぎてしまうと危険です。「ああ前頭葉が、ああ頭頂葉がうごいとる・・海馬のざわめきが」なんて意識に浮かんでる時点で傾聴に集中してないんじゃない?なんておもいます。
 ただ、常に背後に、実は土台の脳神経系のベースへの視点をもつことは大切だと思うのです。
 心理検査では、その昔「神経症の人がきたら、器質因を、器質因っぽい人がきたら、神経症を」と言われたものです。これは今でも重要な視点です。津川(2009)のケースが思い出されます。
 不登校を主訴とし、地味な外見で人に気を遣う人柄の女子高生のケース。

 私は何か嫌な予感がしていた。もう一度不登校のきっかけを聞いたが、目の問題(=みえたりぼやけたりムラがらがある)と意欲低下が不登校の直接の誘因になってるように感じた。ますます、わたしは 嫌な感じがしてきた。初診医に頼んで、頭部CTとMRIの予約をオーダーしてもらったほうが良い感じがした。なによりすぐに眼科で眼底検査をしてもらったほうが安心できた。・・・(中略)・・・(即日眼科に紹介され、検査も行った末)あの日眼底検査でひっかかり、脳外科に即入院し、脳腫瘍が判明したのだった。細かな腫瘍が脳内に散在しており、手の施しようもなかったと聞く・・・

津川律子著「精神科臨床における心理アセスメント入門」P166(2009,金剛出版)

 神経心理学の言葉、はハードにぶれのない、物理的な重さを持った言葉、「科学」や「理論」に近い言葉と思われます。なので、ここに「心理検査の解釈文descriptor」を入れてもいいのではないかと思うのです。ロールシャッハR-PAS曰く、C’は「情緒反応を弱め、鈍くする努力と関連」する。鈍く?いったいどういうことなんだろう?この言葉だけでは、当然有効に機能する言葉を、つかえるわけではないと思います。しかし、統計的にも裏付けられた複数のデータでちゃんと数字が出て、まとめてみるなら、この解釈文が適切、なわけです。

心理治療家の言葉

 心理治療者の言葉は、当然、臨床家が患者さんを前にして話している言葉です。その人の理解力に沿って話さなくてはいけません。相手に合わせた言葉、が常に選ばれます。どんなに権威があって、すぐれた学者であっても、相手に理解できないと意味がない。高度な概念や思想が繰り広げられても患者さんの変化に寄与しないのならばそれは、治療家のいい言葉ではありません。ここに求められるのは百戦錬磨の強く繰り返される格言的な言葉ではありません。使い古されて意味がすり減ったものではなく、その人の前でこそ、その時その場でこそ、出てくる言葉です。「一期一会」の世界の言葉。いくら理論がどっしりと背後に控えていても、常に使われる言葉は相手に沿って変わってかえねばならないと思うのです。
 シェイピングをどう説明しよういしよう?エクスポージャーはなんといおう?抑圧・否認を、防衛機制をなんて語ろう?逡巡と創意工夫、直感と体感の先に言葉があります。

詩人の言葉

 そして最後の、詩人のことば。
 これがねえ、しばらくわからないでいました。詩?「幾時代かありまして~ゆあゆよ~ん・・・・」面接でポエム吟じてどうするんだ?
 詩人の言葉、とはもちろん既存の詩をそらんじればいい、ということではありません。詩ならではの切り取り方をしないといけません。おそらくこれなのかな、とおもったのがレストン・ヘイブンズです。

 「天気どうでしたっけ?」という質問と「日曜日は雨がふっていましたね」という語り掛けを比較してみてください。~(中略)~ 
 (後者の語り掛けから)具体的な細部を検討し、それに思いを巡らすことで感動が動き出します。そしてそれによって記憶や連想の流れもひきだされます。これこそが詩的言語の力です。詩的言語とは極めて具体的な言葉なのです

レストン・ヘイブンズ著「心理療法におけることばの使い方 つながりをつくるために」
(2001,下山晴彦訳 誠信書房)

 詩的な言葉は、そう具体的なことばのことです。あの日、あのとき、あの場所で、君に会えなかったら・・・ああ、これは歌詞の世界だけれど(笑)。
 概念化していない、理論ではない、その人の体験世界から、その人が味わったその体験を示すような言葉、なのではないかと思うのです。誰もがよく経験するような失恋の痛み、ではなく、「あの人との、あのときの自分が味わった、あのときだけの失恋」です。人それぞれにすべて失恋が異なった体験であり、全部色合いがことなるのです。概念化されない、具体的で、動画的な世界の言葉でしょう。

 以上を実践の中で特に培ったのは心理検査の場面でした。心理検査は必ず文章化しないといけません。どんなに象徴的に美的に完璧に内面を描いたバウムテストがあったとしても、それを言葉にしないと所見が成り立ちません。じゃあそのバウムがどうして初期統合失調症の症状の可能性をしめすのか?その根拠はないか?ー-まさに神経心理学的言葉がもとめらます。
 でもその根拠がわかったら、それを患者さんになんていうといいの?どこまでどんなふうに伝えたら、本人を支えることになるだろう?治療をたすけになるだろう?心理治療家の言葉の使い方が問われます。そしてそれを「具体的に。あなたの体験のなかで」どう語ればいいのか。詩人の言葉が求められましょう。
 神経心理学と心理治療家と詩人の言葉の融合の先に、良い実践が持てれば・・・と日々精進精進。

 

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