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【論文考】フォーカシング新時代の予感になるか~「予感する身体」岡村心平著

本ノートは、読んで面白かった論文について考えたことを示したノートです。

紹介する論文


岡村心平 2022「予感する身体 : 治療文化論的考察」関西大学東西学術研究所紀要55巻p147-185 (以下本論文)
KU-0400-20220701-10 (4).pdf

概要

「フォーカシングという「身体知」に関する治療文化論である」(本論文)とはじまるとおり、フォーカシングがどのような位置づけかを探る論文です。ジェンドリンの哲学的論考を中心に、フォーカシングが如何に、新しい発想、問題・困難の解決、理解を先取りする身体知であるか、を論じます。その土台をかためるように、東畑開人先生の概念(「気の臨床」セクター)をはじめ中井久夫先生の統合失調者の病理における「先取り」、木村敏先生の「アンテ・フェストゥム」などを援用しています。


感想 

 いやあ、なにより論説が広範囲。広い海にでたみたいです。様々な論説・概念を結び付けた広がりのある論文です。岡村先生の教養知識の幅の広さを感じます。それも最新の新進気鋭の東畑節から、大御所中井先生・木村先生。圧巻ですね。全部はしらないです。でもわかる範囲でみても、軸がしっかりしていて、思わず膝を打つのですよ”そうだそのとおり”。自分の臨床の実感としっかり乗ってきてくれる感覚があります(僕のフェルトセンスがそういう!というといいのかな)
 論説の中心はフォーカシングでしかも、ジェンドリン哲学。やや難しいです。それはもうそこがコアなので仕方ないです。その概念的硬さにちょっと脳がしびれます。概念のかたるところは、現実的・実際的なものなんだけれど、硬い言葉たちが現実から遊離しさせそうそうな感覚になります。
 複雑かつ難解な要素がごっそりはいっていますが、その中心軸をしっかり定めているのが、本論文の「タイトル」です。そう、フォーカシングで目指す「身体知」はまさに「予感する身体」ということ。僕らの体は、「予感する身体」を持っていて、それを用いることが心理療法になるのです。
 

(P148)~~自身の悩みの解決策やその糸口、新しい理解を予感し、先取りして身体が理解している~~

(P151)~~フォーカシングの本質とは、私たちが抱える問題 や悩みについて「身体が答えを知っており、身体にその答えを聴く」ことを促していると言え る。いわゆる「頭で考える」のではなく、身体で感じることを優先する。

(本論文より)

 フォーカシングの核心はまさに「予感する身体」とまとめることができましょう。身体が予感するという当たり前の現象をつかった心理療法、それがフォーカシングだ、ということでしょう。
 ぼく自身は、フォーカシングを実際に習ったり学んだりした経験はすくないのだけれど、でも本論文で述べられている核心の要素は、よくわかります。日々の臨床実践に心地よく共鳴して響いてきます。

 響く力を持てたのも、繰り返しですが、本論文の教養知識の幅の広さでしょう。中井久夫、木村敏の世代の知見と、現代の東畑開人の知見とを、フォーカシングの糸でつなぎとめて論を展開します。ひろげたふろしきが、いろいろつなぎとめて説得力をもつようにおもいます。

 時代の流れからすればフォーカシング=人間性心理学は、古いものになってしまうかもしれない。注目の「認知行動療法」とはちがう。ロジカルで分かりやすく、”見え”やすく、科学的インターフェイスと響きやすい「認知」「行動」といった概念からしたら「身体知」、はあいまい(注1)。ともすれば旧時代の遺産となってしまうかもしれない。でも本論文は、「予感する身体」という、昔ながら変わらないもの、ありふれて普遍的な要素をもって語ります。その語り口は新時代にフォーカシングをいきかえらせよう、との気概があるように感じられるのです。緻密に編まれた本論文ですが、背後にそうした気概をみると、その分量がおおくなったところに、「燃えよ!考えず、感じるものを言葉に!」といった心意気があったのではないか・・・・などと想像をしております。

  余談ですが岡村先生、noteもお書きになっています(ここ)。いくつか読みましておもしろかったです(ブルースリーとか、フランクルの登山の話とか)(注2)。

 いずれにせよ、読み入らせる迫力のある論文でした、勉強になりました。

注釈

(注1)「身体知」ってじつは、わかる人にはわかってわからない人にはいつまでたっても「ピンとこない」のかなとおもったりします。そりゃ「白か黒か認知」なんて説明かんたんでしょ?ところが「体が予感する」ってことをどう説明しよう?それを必死に言葉を連ねてるみたいにおもっちゃうんですよね。「身体知」のような”奥底の””下のほうの””言葉以前/以外の”領域に手を出すとどうしてもあいまいで、だから「あやしさ」が付きまとっちゃうのでしょうね。本論文はその「あやしさ」とも戦ってどうにか居場所をさだめよう、ってしてるようにもよめました。
(注2)
 岡村先生のことは、以前「なぞかけフォーカシング」なる奇想天外なタイトルを掲げた人がいて、「誰やねん?なんやねん?(なんで関西弁)」と思わずなってしまって存じ上げるに至った次第。その「なぞかけ」なるものの様子がしれるぞ、とこれ(先生の博論ですね)を今読み中。


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