「考えるな、感じろ」の本当の意味: フォーカシング=カンフー論(1)
はじめに
フォーカシングを、学生や広く一般の方々を対象にご紹介する機会が増えてきた。身体感覚を重視するということはとてもシンプルな一方で、「フェルトセンス」や「体験過程」という用語のとっつきにくさ、中には「一つもピンとこない」こともあったりして、フォーカシングをどうわかりやすくお伝えしていけるかは重要な課題だと思っている。なるべく例を出してわかりやすくしたり、話芸も大事だと痛感するこの頃である。
とはいえ、「自分の実感を大切にすること」自体の大切さなら納得できる、という場合がほとんど。そしてよくあるのが、差し当たりご説明してご質問をいただいたり、コメントを共有してもらう中で「なるほど、要するにフォーカシングって、『考えるな、感じろ』ってやつですね!」と言われることだ。それでいいのかとうっすら思うこともあれば、「まぁ、そういうことですね…」みたいに、それこそ感覚でお応えすることもあった。
でも、そういった感想を持っている方のお話をよくよく伺っていると、例えば「つまり、言葉にならない実感の方が大事なので、あんまりくよくよ考えたり、言葉にしようとしたりしないようにするってことですとか」とか、「感じに注意を向けるって、瞑想とかだと日頃やってるんですけど、フォーカシングって感じを言葉にしようとしちゃうじゃないですか。感じるのか、言葉にするのか、どっちが大事なんでしょう」と、そこにはフォーカシングに関するさまざまな疑問を続けていただいたりもする。この辺りは実はとっても鋭い指摘で、フォーカシングの伝わりづらさや、ジェンドリン哲学の独特のところが実に反映されているように思う。
言葉と感覚の矛盾
「考えるな、感じろ」というフレーズをそのまま当てはめて理解しようとすれば、つまり「考える=言葉であれこれやる」のではなく、「感じる=感覚に浸る、そのまま受け取る」ことを大事にすることが大事だ、というように受け取れる。「ウダウダ言うな、黙って集中しろ」というマッチョな雰囲気である。
実はこの感覚と言葉の裏腹な関係は、ジェンドリン哲学のとても重要なポイントである。「身体感覚は、言葉(シンボル)と相互作用することによって、より精密に機能する」というのが、フォーカシング実践を支える理論的な視点だと言える。
だから、言いづらいから"言わない"のではなく、言いづらさに注目し、言おうと試みること、言葉を探すためにより丁寧に感覚に浸ることで、さらにその「言えなさ=未知の意味」がどんどん際立ってはっきりとしていく。その感覚についての、よりはっきりと、より豊かに、より創造的に意味の理解が展開されていくことになる。
だから、フォーカシングの説明のする際に、よく言われる「考えるな、感じろ」というフレーズに類するところをあまり強調しすぎると、また別様の誤解が生まれやすいような気もして、あまり言及してこなかった。何も言わず、ただただ黙って感覚に没頭しろ、というのは、実はフォーカシングの説明としては(そういうふうに見えても)強調点が少し違うような気がする。カウンセリングの文脈で生まれたフォーカシングが、感覚を大事にしながらも、瞑想的というよりもむしろ対話的で「言語」を大切にしていることももう少し強調してうまく説明したいと常々思っている。
そして実は、とある機会に「考えるな、感じろ」の出典元、かのブルース・リーの『燃えよドラゴン』を改めて観てみるとと、僕自身が「考えるな、感じろ」ということの意味を誤解していたことに気がついたのだった….。むしろ、ブルース・リーの「考えるな、感じろ」は、ただしくフォーカシング的だと言っていいのでは以下。
僕は「考えるな、感じろ」をずっと、カンフーの試合中とか、あるいは実践中での心構えみたいな話だと思い込んでいた。「目の前に戦う相手がいるのに、つべこべ考えていたら、判断が遅くなる。とにかく感じるままに動け、それが鉄則」みたいな。リーが「水のように(like a water)」とよく言っていたこともあったし、とにかく余計なことを考えず、「無心に」い続けること、という意味合いなのだろう、と。自分も武道経験があったので、試合中の体感のようなものを想像して、実践中は予断を挟むな、くらいの意味でこの「考えるな、感じろ」を素朴に理解していたのであった。
しかし、実際に劇中での表現を見てみると、「考えるな、感じろ」はもっと広い射程を有していたのであった。「考えるな、感じろ」は、実践場面での心得というよりも、ある種の熟達論なのである。日々の訓練、修行、そして(それ自体が修行であると言ってもいい)あらゆる生活場面において求められるある種の態度。リーが強調するこその態度が、極めてフォーカシング的だと言っていい。フォーカシングというある種の身体感覚への構えが、なぜセラピーやセルフケア、問題解決の場面で役に立つのか、これを理解する重要な糸口になると考えてもいいかもしれない。
改めて、リーが言った「考えるな、感じろ」の本当の意味を探ってみよう。この記事をお読みになってる方で、まだ『燃えよドラゴン』を観たことのない方は(割と多いかも)、最後まで読まれたら観たくなるはずだ。僕はもちろんリアルタイムの世代ではなく、カンフーといえばどちらかというとジャッキー・チェンという印象で、『燃えよドラゴン』やリーの作品はあんまり観たことがなかった。今改めて観ると、とてつもない味わいのある映画なのである。そして何より、ついモノマネをしたくなるのだ。
『燃えよドラゴン』という思想
『燃えよドラゴン(原題: Enter the Dragon)』は、1973年に公開されたカンフー映画の金字塔として有名である。公開時にはすでに主演のブルース・リーが亡くなっていたが、この映画、そして『死亡遊戯』など数少ない彼の主演映画によってカンフーは爆発的な社会現象になり、後世に強い影響を与えている。昔、叔父が若い頃にこの映画を観た後すぐ感化され、ヌンチャクを買って振り回していたと話していた気がする。
18歳になってシアトルに留学した後、のちにワシントン大学で哲学を学んだ英語が堪能であったリーは、この映画の制作、脚本などにもコミットし、リー自身がセリフを変えてもいいことを条件に含んで出演の契約をしてたようだ。実際に、映画序盤の有名な「考えるな、感じろ(Don't think, Feel!)」を含むシーンの台詞は、リー自身が付け足したもので、彼のカンフー観、武術に対する「思想」が反映されていると言われている。映画冒頭にある、(武道の本質とは)「型を持たぬこと」、また「敵は存在しない、なぜなら"私"が存在しないからだ」というセリフには、東洋思想的な発想が反映されている。そして、映画のクレジットタイトルが挿入される前の場面で、この「考えるな、感じろ」というセリフが登場するのである。
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『燃えよドラゴン』のあらすじも少しだけ。舞台は香港、中国武術の総本山である「少林寺」に属する主人公リー(役名、本名と同様であるところに本作へのリー自身の思い入れがうかがえる)は、師匠からとある依頼を受ける。同じく少林寺で武道を学びながらも、戒律を破り、私利私欲に塗れて悪行を繰り返すハンという男を、少林寺の名を守るために撃て、という指令である。
寺院内で、国際情報局のブレイスウェイト捜査員から事の詳細を聞いていると、リーのもとへある少年がやってくる。弟子であるこの少年に、リーが武道の稽古をつける約束をしていたのだった。そして手合わせをする中で…という場面が当該のシーンである。つまり、「考えるな、感じろ」は本編の筋とはあまり関係ない、タイトルクレジットの前の導入的なシーンに登場するセリフなのだった。むしろ「カンフーとは何か」という思想的な説明として挿入されているセリフである。
劇中のセリフをたどる:「どう感じた?」
稽古の場面を、実際のセリフを紹介しながら見ていこう。なお、セリフ(オリジナル・邦訳共に)は、DVD版の字幕からプロットしている。原語から考えると意訳的であったり、原語の方にもっと注目したいニュアンスがある箇所もあるため、その都度補足しながら記述していく。
少年と手合わせを始めるリーは、一礼して、ただ一言、
と言って少年に対して構える。
少年は戸惑いながらも、リーに対して構え、横蹴りを一発入れる。
リーは難なく蹴りを避け、少年に向かって諭すように、
と自分のこめかみを指差しながら言う。
ここで重要なのは、リーが原語では"emotional content"、情動面の必要性を教えていることである。この辺りが日本語字幕だとニュアンスが異なる印象を受けている。気合というとよりマッチョだ。
そして、リーは「もう一度(Try again)」と言い、構え直して稽古を続ける。
少年は、少し緊張も取れてきたような表情で、今度は先ほどよりも大胆に、横蹴りでリーに向かって飛び込んでいく。
それもひらりとかわすリー。そして、
ここでも、原語と邦訳では少しニュアンスが異なっているように思える。日本語だと「気合いを入れろ」とは言っていなくて、引き続き"emotional conetent"ということを強調している。面白いのは、ここでいう"emotional"なものというのは、「怒り(anger)」ではないという点だ。強い怒りの感情のままに任せ、技を繰り出す、ということが求められるのではない。そうではないところの「情緒面」が大事だ、とリーは少年に顔を近づけながら、ゆっくりと語りかける。
続けて、
とリーがいうと、2人はまたお互いに構え直し、少し間を置いて、少年はまた蹴りを繰り出してみる。
二発目、少年の蹴りがビシッと決ま理、会心の一撃となった(小気味のいい効果音がなる)。その時、間髪を言れずに、リーは少年に駆け寄り、彼を褒める。
要するにリーは、少年に「今の蹴りよかったな!自分ではどんな感じがした?」と、蹴りを繰り出した時の「体感」を尋ねたのだった。今の感じ、掴めたか?といった具合に。少年に「どう感じた?」とリー自身が問いかけを行うところは、決してカンフーの極意が外側から押し付けられてただ反復することで身に付くのではなく、まさにその人が感覚で持って掴んでいくものだ、という示唆でもある。武術とは単なる型でも運動でもない。感覚的なものだ。
しかしここで少年は、リーの意にそぐわない回答の仕方をする。自分のあごに手をあて首を傾げながら、
と目線を上に向け、少年は自分の言うべきことを考えようとしたのであった。"let me think"は何かを考えるときの英語での常套句でもあるが、ここで少年が"think"という言葉を使っていることが注目点である。
それを見たリーは、すかさず少年の頭をピシャリと叩き(!)、血相を変えて少年に顔を近づけ、じっと目を見てこう言った。
これが、「考えるな、感じろ」という名ゼリフが使われた実際の文脈である。この後もセリフが続くが、それは次回の記事で詳細に取り上げるとして、可哀想にこの少年は、この稽古が終わるまでにあと2発も殴られることになる(そこはマッチョだ)。ちなみに、この少年役の俳優トン・ワイ氏は、その後も数々のカンフー映画に出演し、映画監督としても活躍されているそうだ(よかった)。
"feeling"という理解の仕方
こんなふうに、リーの「考えるな、感じろ」はいわゆる戦闘中の鉄則というより、カンフーの熟達のための極意として、少年に指南する中で言われたフレーズであった。言わば、教育論なのである。これはまた別の記事にてゆっくり言及する予定だが、もともとカンフー(クンフーという音訳も)は、中国語(普通語)では「功夫」、日本語なら「工夫」と書く。格闘技に限らず、芸事などを含む、ある技術の練習や訓練の仕方、時間の掛け方全般の"工夫"が、まさに「カンフー」であり、その極意が「考えるな、感じろ」ということであろう。
なぜ少年は怒られたのか、「考えるな」と諭したのか。リーは少年に対して、ある動作に対して「どう感じた?」と問いかけ、それに答えるために"thinking"という方法を用いた。リーは自分の発した問いかけに対して、"thinking"という仕方ではなく、"feeling"という仕方で振り返れ、ということを求めたからだ。
リーは明らかに、「何も考えるな、ただ黙ってやれ」というようなマッチョなことを求めてはいない。むしろ「今の、どう感じた?」という対話的な仕方で、少年に自分の体感を振り返ってもらい、何か気がついていく過程を促していたのだった。ひょっとしたら、少年がその感じに注意を向け黙ったとしたら、リーは次に来るかもしれない彼の言葉を待っただろう。その感覚をなんとか表現しようとして言い淀んでも、それを歓迎するだろう。
身体運用を記述する際の「わざ言語」には、一見すると矛盾めいたもの、比喩表現などが用いられやすい(例えば、舞踊を踊るのに「手に目がついていて、それで辺りを見渡すように踊れ」など)。だから例えば、「何ていうか…足裏蹴るというより、腰から蹴るような感じですかね」のように矛盾めいたことを少年が言ったとしても、リーはそれを歓迎するような気がする(数なくとも、殴りはしないはず)。むしろ、そうやって言語的に表現していくことで、身体知はより精密になっていくのである。
リー自身が先の場面、稽古の冒頭から特に強調していた"emotional content"というものも、こういった"feel"という仕方で理解できるようなものだとも言える。そしてそれは「怒り」ではないという。まるで公案のようだが、それは"feel"という仕方で体感に迫り、それを表現しようと試みることで、また接近できるものでもあるのかもしれない。これはまさに、怒りや悲しみなどのパターン化した「感情(emotion)」と、「身体感覚(felt sense)」を強調する、フォーカシングの発想に非常に沿っているようにも思える。リーの強調した"emotional content"は、情動的なものの身体面、まさにフェルトセンスのことを言っているように思えてならない。
自分の体験を振り返るとき、"think"という仕方ではなく、"feel"という仕方で振り返れ。この「考えるな、感じろ」は、そういう意味で非常にフォーカシング的だ。フォーカシングでは、状況や問題について、自分の身体感覚"フェルトセンス"を手がかりに、一般的に悩むときにやってしまう「考え(thinking)」による仕方ではなく、「感じ(feeling)」による仕方で振り返ることをする。しかしそれは、ただ感じや「感情」に浸ることではない。むしろ、言語と感覚を相互作用させることで、より感覚的な理解を精密にしていくプロセスのことである。そしてもう少し踏み込んでいえば、この場合、一般的に「考える」というのは、むしろ「感じる」ということに包摂されていく。
リーが指南した少年がしたように、自分の「感じ」から離れて「考える」ことは、体感を理解していくこと、あるいはこの手の「身体知」の熟達という点からすると間違った仕方だということだ。一方で、「考えるな、感じろ」は、教条ではなく方法論なのである。リーが求めたことも、そしてフォーカシングも、むしろ感覚を言葉にしていくことで体験の意味が熟していくという"thinking with the implicit"(暗在とともに/を使って考える)という、ジェンドリン哲学の本質をついているように思える。自分の体験を再帰的(reflexive)に振り返るためには、「感じる」という仕方が不可欠なのだ。
まるで、リーがフォーカシングを知っていたのではないか、と思えてしまうくらいだが、残念ながらジェンドリンによる書籍『フォーカシング』の初版が世に出る1978年より前に、リーは亡くなってしまっている。しかし、ブルース・リーの伝記・遺稿集である"Artist of Life"によれば、彼の手書きのメモの中に"notes on Gestalt Therapy"というタイトルのものが存在する(p.71-72)。シアトルやワシントンで哲学を学んだリーは、当時のアメリカではすでによく知られていたゲシュタルト療法に興味をもち、学んだのであろう。"emotional"という表現や感情の捉え方には、ゲシュタルト療法をはじめ、広義の人間性心理学の気配が確かに感じられる。それがこの「考えるな、感じろ」というセリフの奥行きになっているといっていいだろう。
さらに言えば、リーこの「考えるな、感じろ」の台詞のあと、少年に対して間髪入れずに、このような説明をする。
これは「指月の喩え」という、仏教、特に楞厳経という大乗仏教の経典の中に登場する言い回しなのだそうだ。この"don't think feel"の本質は、この指月の喩えという”メタファー”にある。そして実は、この指月の例えは、フォーカシングの最も重要な概念である「フェルトセンス」のパラフレーズでもある概念「直接参照(direct referent)」のアナロジーとして見ることができる。フェルトセンスは、身体感覚は、次なるものを指し示す。それは月を指差すようなものだ。
そんなわけで、フォーカシングは、カンフーである。
(続きはまた次回。)
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