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「小説の神様」はいるのか?

「小説の神様」という小説にハマっているのですが、そのテーマが「人を動かすことのできる物語はあるのか?」「上辺のテクニックではない、本当の物語はどうしたら書くことができるのか?」ということで、売れない高校生小説家である主人公は、紆余曲折あって素晴らしい物語に到達した時、ある種の神秘体験をする、といったお話です(ネタバレになるのでめっちゃ省いてますが、とてもワクワクする青春小説です(^^)。

昨年ちょうど映画になっていて、新型コロナで延期されたため10月公開ということで見てきました。橋本環奈が美しくてよかったが、お客はガラガラですぐ打ち切りになったみたいでもったいない。だけど、見たあとに心地よくなれる映画ではあった。コミック版もなかなか良い出来栄えで、もっと人に知られてほしいと思う作品です。感動の度合いでいうと、小説>コミック>映画となってしまうのは、最近自分がアニメばかり見ていて、実写映画の良さであるリアルな人物の質感や映像の醸し出す空気感というものから遠ざかってしまったことも大きいのだろう。そういった媒体ごとの違いを評価として大きく取れば、それぞれに良い作品となっていると思う。

映画があまりにも話題にならなかったのがもったいないのだが、なんと本日(2021年2月24日)アマゾンプライムで無料公開されていたので書いたままになっていたこの文章も公開することにしました。

その昔、アマチュアオーケストラでホルンを吹いていた頃の話ですが、凡庸な奏者がたいていは本番のときに限って「これまで聞いたことがないほど素晴らしい演奏をする」と言ったことが時たまありました。本人もどうしてそんなに上手く行ったのかわからなくて、そしてコンサートが終わったらまた”ぷしゅーっ”と、元に戻ってしまう。いつも同じ人がそうなるのではなく、思いがけない人が思いがけないソロを吹く(管楽器奏者が多かったので)ことがあるのです。そしてこれは決して超珍しいことではなく、仲間内ではそんなことがあるたびに「あ、あの子に音楽の神様が降りてきた」と受け止めていました。

自分の体験では、緊張と力みと平常心とその音楽に対する深い敬意と自己肯定感が絶妙のバランスをとった時に、その奇跡は起こるようでした。自分自身の演奏経験では約15年間50回くらいの本番演奏体験のなかでわずか2回だけ、そんな体験がありました。自分なのに自分じゃない何かと一体になっている、コンサートホール内部を上から見ているのとステージ上の演奏者としての視覚が融合している、聴覚が拡張して「お客さんがハッと息を呑むのが聞こえる・わかる」「オーケストラ全員の出す音が、どの音が誰の音かリアルタイムですべてわかる」としか思えないことがありました。超アツい何かが自分の意識の中でドライブをかけていて日常からかけ離れたモードに侵入しているのに、もう半身の自分の意識は超冷静にその片割れを見ているような、火山の大爆発の熱気と氷山の冷気が同居しているような、、、。長い間、その状態がなんであったのかうまく表現できませんでした。その時の自分の演奏に対して、「上手かった」ではなく「うまく言葉に出来ないけどドキドキした」と伝えてくれた仲間の言葉は今も大切な記憶です。


これがファルコの言う「自分を超えた何か」と繋がったのかどうか、当時はまったくスピリチュアルな知識がなかったのでわからなかったのですが、今振り返ってみるとおそらくそうなのかもしれないと。ただこれは一瞬だけのピーク・エクスペリエンスというべきもので、その世界を「垣間見た」だけなのでしょう。

おそらく芸術は、そういった「拡がった自己」「高位の自己」と繋がりやすい場を創り出し、日常のなかで自分の作り出した狭い現実に合わせてギュウギュウに押し込めてしまった、通常の自己を開放してやる作用があるのかもしれません。古来より、神殿という場所、神とつながるための場所が様々な芸術で彩られてきたのはこういった理由と無関係ではないのでしょう。


しかし、そんなスピリチュアルな見方をしなくても、ここで紹介しているようなオリジナル作品を生み出そうとする人々の苦悩、さまざまな人々の経験談を読み解いていくと、自分のエゴを排してさらに深い自己・虚飾を排した自分の本質へと迫る作業こそが、それを見聞きする人に感動をもたらし、他者の深いところへと届くのではないかと思い至ります。

「小説の神様」の主人公のように、才能を見いだされ若くしてデビューしたのにその後は売れないという現実に打ちひしがれ、どんどん自分で自分を否定してしまい、どん底にあってようやく見出した願い、純粋な意図で他者を思って紡いだ願いが、エゴを排して利他的になれた時に到達できるある種の境地、これまでと見え方が違う場所、自分を超えた意識の状態に自分自身を連れて行ってくれるということは、充分ありうることだと思うのです。

「物語の持つ力」はこれまで自分が書いてきた記事でも触れたように、不治の病と向き合う生命力を鼓舞したり、戦後PTSDに苦しむ兵士たちに許しと癒やしをもたらすなど、長い人類の歴史で物語が連綿と伝えられた理由があることを教えてくれます。もしかしたら人間の存在意義とは「物語を語り継ぐ」ことなのかもしれませんね。



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