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聖杯探究の物語と、現代において「ナラティブ」の意味するもの​

治らない病気を診ることが医学の神髄だ――人はナラティブによって生きている

上記テキストを読んだ時、最後の一文にはっとしました。

人間はどんな困難も乗り越えられる。そういう力が備わっています。多くの人は諦めてしまうけれど、物語を豊富に知っている人は動じないでいられる。そういう心をもって、それぞれの道を進んでほしい

著者の中島孝氏はALSなど現代の難病に取り組む医師ですが、この文章のタイトルの通り『治らない病気を診ることが医学の神髄だ』との信念を持って困難な医療に取り組んでいます。その困難に立ち向かうキーワードが「ナラティブ」に基づく医学だとの主張です。ナラティブの定義を読むと小難しくて良くわからないのですが、それは上に引用した一文のように人間という存在を捉えることではないかと感じました。どのような困難にあっても人間性を失わず立ち向かっていった人々の物語を読むときの、心の奥に湧き上がる感情の力やエネルギーを大切にしよう、そんなふうに私には感じられたのです。

この文章の最後にジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」がお勧めの書籍として挙げられており、神話や物語の持つパワーが、私たちの心の深い部分の鍵を開ける、実際にそういう体験に興奮した過去を持つ者として、とても納得できる内容でした。

しかし、どんな物語でも良いのでしょうか?言い換えると、「鍵」として機能する力を持つ物語はどのような物語なのでしょうか?

第1稿に書いたように、聖杯探究の物語は神話の英雄譚と共通の構造を持っており、そこで描かれる聖杯を探し求める騎士たちとは暗示的に書かれた精神的探究者のことである、と、スピリチュアルな世界では解釈されています。この時代の騎士たちが探し求めた聖杯(グラール、Holy Grail)は、実はその時代によって形を変えていた、あるいは別の形のものが「グラール」と呼ばれていたという説もあります。

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この絵の作者オベルト・アイラウディは、現代イタリアの画家、著述家、哲学者であり秘教的知識の探求者でしたが、2013年6月に亡くなる直前に、

「現代におけるグラールの新しい形は『病気』だ」

とのメッセージを残しました。現代における病気は誰にも平等に訪れ、誰もが自分が病気になることの意味に取り組む必要がある、私はそのメッセージをこのように解釈しました。病気になって自分の生命の行く末と真剣に向き合った時、特定の「物語」という鍵を手にしている人は、思いがけない力を発揮することができる(それは単に奇跡を起こして治癒する、という意味にとどまらないのですが)、人間にはそういった思いがけない力が隠されている、という意味ではないかと。


となると、聖杯物語の基本構造や、多くの神話の英雄譚に見られる基本構造が、人間の潜在能力を開放する「鍵」として機能する可能性がある、そのように考えられないでしょうか?
(第3稿「戦後・退役後PTSDに対する「神話」のもたらす効果」へ)
(ナラティブつながりの記事はこちら)


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