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「スクール・フォー・グッド・アンド・イービル」の感想。メタおとぎ話。

雑なあらすじ

おとぎ話の登場人物になるために、生徒達が善と悪に分かれて研鑽を積む学園、それがスクールフォーグッドアンドイービル。仲良しのソフィーとアガサはひょんなことから(半ば拉致られて)そこに入学することになるんだけど、ソフィーはなぜか悪の学部に入れられてしまう。私これからどうなっちゃうの〜?

おとぎ話をパロったような、程よくしょうもなさそうな映画だったので見てみた。(シャーリーズセロンが出てたから見たってのもある)
いざ見てみると、メタおとぎ話、もしくは思弁的おとぎ話論映画とでも言うべき映画だった。

ハリポタっぽい?いいえ、思弁的です。

①魔法の学校で②生徒達が複数のチームに分かれている。という点で、ハリーポッターを連想するのはもう仕方がないことだと思う。
その上で、ホグワーツでは4つの寮が存在していたのに、この学校には2つの寮しかないので、両者間の緊張の逃げ場がなくて窮屈に感じた。

ハリーポッターも実質的にグリフィンドールとスリザリンしか機能してないじゃんと言われれば確かにそう。でも、敵と味方の他に、その他(ハッフルパフとレイブンクロー)という区分があるかないかは世界の規模感にも関わってくる結構重要な要素だと思う。

それでも敢えて善悪の二項しか用意しなかったことに、この映画の思弁的な性質が表れているように思える。議論する際に不要なノイズはそもそも俎上に載せないようにしている。

そんで、この映画が馬鹿みたいに長くなっている(2時間半!)のは、グリフィンドール(善)とスリザリン(悪)の様子をどちらも均等に映しているせいだろう。この構造になるのは映画のテーマからして仕方がないこととはいえ、もうちょっとなんとかならんかったか?とは思ってしまう。(一作目から議題を広げすぎというのもある)

変な学校。メタおとぎ話。

古今東西のファンタジーの悪側、善側のスター達の子供が集まる学校。この舞台設定の時点で若干気になるところはある。この映画では現実世界と同様、ファンタジーはファンタジーとして消費されている。例えば白雪姫やアーサー王物語なんかは昔から読み継がれていることになっている。
なのに、それらの登場人物達の子供が、丁度主人公達2人が入学した時にドンピシャで生徒として学校に通っているというのはどういうことなんだ?
というか、そもそもファンタジーの登場人物を養成する学校に、ファンタジーの登場人物の子供ばかりが入学するということ自体に奇妙さを感じてしまう。既に何者かである者達が、何者かになろうと学校に通うのはナンセンスだ。

そのナンセンスさに一旦目を瞑っておくと、本作では登場人物達が、自身がおとぎ話の住人であることを自覚し、更に皆んながおとぎ話あるある(王子様のキスで全部解決だとか)を知っている状態で話が進んでいく。
みんなが自分達の善らしさ、悪らしさに自覚的な行動を取るということは、必然、話は自己言及的になっていく。
結果、本作はメタおとぎ話とでもいうべきものになっていた。おとぎ話というジャンルについてのおとぎ話というか。

悪が陳腐化した世界のラスボス。

善と悪の戦いを、「ファンタジーあるある」としてメタ的に捉える今作においては、善も悪も相対化され、陳腐化してしまっている。
子供向けのファンタジー映画である以上、こんな世界にも倒すべきラスボスはいる訳で、じゃあ悪が陳腐化してしまった世界で、ラスボスの悪性をどう表現するんだろうというのは気になっていた。
ただの悪役というのではもちろんダメで、今作のラスボスには『超・悪性』を持った、『超・悪役』であることが求められている。(補足1)
じゃあその『超・悪性』って何だ?

という風にワクワクして見ていたんだけど、この映画ではラスボスの『超・悪性』を描く代わりに、「この善と悪の二項対立は、ラスボスによって陳腐化されていたのだ!」という方向でラスボスに特別さを付与していた。
つまり、陳腐化した善悪を超えたやべー悪性を持った超越タイプじゃなくて、「そもそも陳腐化させたの俺なんすわ」という起源主張タイプ。
しかし、起源を主張するのだとしてもラスボスには陳腐化する以前の原初の悪性を持たせる必要があって、いずれにせよ『超・悪性』は描かないといけないはずだった。そしてそれが成功しているとは思えない。
「支配するんじゃなくて皆殺しじゃー!」って、それをやってる悪役って他にも大勢いると思いますよ。

という訳で、善悪の話をしている割にラスボスの悪性の描き方が弱いことが残念だった。

補足1:『超・悪性』『超・悪役』
当然、超・悪性だとか、超・悪役だなんて言葉はないです。陳腐化した善悪とは階層(レベル)の違う悪。という意味で使っています。
今作では古今東西のおとぎ話をこの物語に従属する小世界として扱い、それらを陳腐なものとしています。であれば今作のラスボスは古今東西の悪役を超えた究極の悪役でなければならないということです。

善悪の二項対立。そして脱構築。

一方で善悪の二項対立についての議論自体は結構楽しく見ていられた。
学校内の大原則として、「悪はいつも先に攻撃する」というのがある。これを逆手にとって、先に攻撃させることで相手を悪に堕とすソフィーの作戦には胸が熱くなった。
悪と善が反転しうることを示したこのシーンは、おどろおどろしい雰囲気とは裏腹に、かなり希望のあるシーンだと言える。
実際、最終的に善悪は脱構築され、2つが混じり合うことでハッピーエンドを迎えていた。
ラスボスが善の非道さ──赤い靴の少女の足を切ったり、魔女を焼き殺したり──を糾弾していたのも、この結論を後押ししていたように思える。

しかし、アガサが終盤で打ち出した、「大切な人のために戦うのが善!自分のために戦うのが悪!」という自論は、この映画の議論の中でなんか浮いてるように感じた。みんなして善も悪もないって方向で落ち着こうとしてるのに、君だけ空気読めてなくない?

善と悪が混じり合ってしまったら、今後この学校からはなあなあの馴れ合い物語しか生まれないのでは?とも思った。それとも「善悪が区分けされた物語とかもう古いっしょ笑」ということなのか?

アガサは空気を読めてないのか問題。

アガサの自論が作中で行われる善と悪についての議論の中で浮いているように感じるのは、生徒達が善と悪に分かれて戦っている様子を見ても、誰一人として大切な人のために戦っているようには見えないからだ。かと言って自分のために戦っているようにも見えない。みんな"そういうものだから"戦っているだけだ。善と悪とは対立するものだから。
しかも、決着が付いた後にはなんだかみんなで仲良くなっている。
善と悪についてのアガサの自論は、しかし、善と悪の学校の生徒達には適用できないのだ。

では彼女はなぜこんな自論を打ち出したのかというと、彼女が善も悪も端的にどうでも良いと思っているからだろう。
彼女は最初からずっと、この学校の善悪の議論にはクソほどの興味も持っていない。
アガサはもともと、善悪だけではなく、ソフィー以外の世界全てに対して興味を持っていなかった。
ソフィーが世界を変えようと希求していたのとは対照的だ。
実際、学校に来てからのアガサはずっとソフィーと一緒に帰ることしか考えておらず、悪に組み分けされて悲しんでいるソフィーとは話が噛み合っていない。アガサにとっては、ソフィーが善になろうが悪になろうがどうでも良いのだ、アガサにとって、ソフィーと故郷に戻れないと言う時点で既に最悪なんだから。

つまり最終局面でのアガサには「自分とソフィーvsソフィーを我がものにしようとするラスボス」という構図しか見えておらず、だから彼女が語る善悪論の射程には、学園内に存在する善と悪の区分けはそもそも含まれていない。
アガサは空気が読めていないのではなく、議論をする気がないのでした。

しかし、作中で、アガサがソフィー以外に興味を示すこともあった。それは落第した生徒が化け物になってしまったことについてだ。
アガサはこの学園の善悪を最初からどうでも良いと思っているので、そんな事のために生徒が永遠に姿を変えられてしまうことに我慢できない。
なので、アガサは魚に姿を変えられた生徒の呪いを解いてあげていた。
この行為は「先に攻撃をするのが悪、防御するのが善」という学校の原則からは漏れ出た行為だ。
そして、アガサの自論「大切な人のために戦うのが善」という言葉を、「他者への愛情」くらいにまで拡大して解釈すれば、これはアガサの自論に沿った行為だと言える。
アガサは善と悪の議論を、愛の議論へとすり替えたのだとして見れば、この自論と映画の結末にもある程度の納得はできるかもしれない。

この映画の1番の美点。

なんだかんだ言ってきたけど、結局、ソフィーが可愛すぎたのでこの映画はいい映画だと思った。
悪役として花開いたソフィーが可愛すぎる。悪くて、自分が悪いことを自覚していて、自分が可愛いことも自覚してる女の子ってマジで最強。
ソフィーが無双している時の音楽もノリノリでめっちゃ良かった。

夢見る文学少女が
悪のカリスマに

アガサとの関係もとても良い。世界を変えようと空回っちゃうソフィーと、世界なんてどうでもよくて、ソフィーのことだけが大切なアガサ。
アガサが最後まで学校のことをクソほどにも思ってないのがマジで良かった。(アーサー王の息子にはちょっと心奪われてる風だったのが気に食わないけど)

結論:とても良い映画だと思いました。

にしたって2時間半は長かったけどね。以上。

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