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世のため人のためという偽善と自殺

TTと話をしていると本質的な議論になることが多い。
炒めものが中心で、彼女曰く「不好吃」という料理は僕は結構好きで、zwiftを使った自転車の室内トレーニングの後で、少量の白米と一緒に美味しく食べさせてもらっている。
今回の夕食で彼女が言っていたのは
「(彼女が知り得た範囲での知見に基づく)日本人は、すぐに社会のためにとか、人のために、とか言うけど、結局それで収入が少なかったり、減ったりすれば怒るでしょ。それって全部”假的(嘘だ)”」
というもの。
そのついでに言ってたのが、
「私は社会のためにとか、人のためにとか、そういう価値のあることは何もできない。だから自分のために干活(がんふお:目の前にある仕事)する」
ということ。
ニュータマリバ の成分研究室での話だったかな、「美しく強い女性のために”活動”をしている女性の講師、指導者を見たら、みんな美しくなかった」という”成分”があって、そうだよなと思いながら聞いた。
人を救う前に自分を救う。
人を愛する間に自分を愛する。
分かりやすく書いているだけだけど、結局、真我(自分の意思というか魂の本質的な存在)に境界など引けないので、自分と他人、自分と社会、みたいに対象を決めて「救う」という考え方になった瞬間に、それは自分(自我)にとっての他者を哀れんで驕っているのであって、魂としての真我を憐れむことになり、もっと言えば、真我を「救う」対象として、そしてここからが重要なのだけど、「結果的には救えない」ものとして貶めることになる。
人や社会ってのは救う対象ではなくて、そもそもそれがそこに存在していること自体が真我であるということでしかない。
なので、救うんじゃなくて楽しく幸せであることを自覚することから始めるってこと。それを彼女は自然に分かってるんだろうなと。まあ、そういう彼女がここに実在するってのは、僕自身がそういう存在ってことなわけ。有り難いことやね。

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