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映画”Lucky”の中に見る古き良きアメリカが持っていたコミュニティの本質

映画”Lucky(ラッキー)”を観た。

人という存在が動物と決定的に違うのは、その中に固有の時間が流れており、その時間というものは過去の記憶の蓄積であり、過去の記憶というのは、自分がこの瞬間までに行ってきた選択(捨てた選択肢も含めて)のことである、という仮説を持っている。豊富な選択肢を持つということは、その時点における未来に向けた無限の可能性を持っているということを意味する。そして、その選択肢を形成するのは、親が準備してくれたものも含めて個人の外部環境の多様さ、複雑さに依存する。

それぞれが持つ遺伝子能力を発現するためには外部環境が重要であり、外部環境は社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)に依り、そしてそれは経済力に依存する。

ということだと現段階では思っている。そして万人が享受できたその環境は、世界的に崩壊に向かっている。格差社会の広がりによる混沌とした社会の様相を見せつつあるアメリカの中で驚きを持って迎えられたドナルド・トランプを支持するのは、一般的には既得権益層であると思われてきた白人における貧困層である。

一方で、彼らの祖父母の世代まではアメリカンドリームは確かに存在したようだ。では、そのような時代とはどのような空気感だったのだろうか?ケンタッキー周辺のカウボーイの末裔たちはどのような人々なのだろうか?

ということで、それらしいキーワードをGoogleに入れた結果、見つかったのがこの”Lucky(ラッキー)"という映画だ。詳細についてはここでは書かないので、上記トレイラーで雰囲気を感じて欲しい。

全体を通しての基盤として、多様なコミュニティがそこには確かに存在するということだ。

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オフィシャルサイトから拝借した、特徴的なシーンの映像を見て欲しい。ここには白人、黒人、ヒスパニックが映っている。老人もいれば若者もいる。男女だけではない、動物的に言えば男性に見える2人の若者はゲイカップルなのだ。また、主人公が毎晩ブラッディマリーを飲みに行くバーには主人公のように慎ましく暮らす人々もいれば、弁護士も財界人もいる。

人種、職業、経済力、社会的(性的)態度も含めて多様な人々が自然と同じ場所に集まり、同じトピックについて対等に会話し、議論し、時には熱くなって喧嘩をし、仲直りをして、そこから少しの思索があって、そして日常は続いていく。


ただ買い物に来ていただけの年老いた白人である主人公が、その店主であるヒスパニックの誕生日パーティ(フィエスタ)に呼ばれて、そこでスペイン語の(場違いな)歌を披露して、皆を暖かい気持ちにさせる。

いつものモーニングのカフェダイナーで、偶然立ち寄った海兵隊員と太平洋戦争に従軍して日本軍(彼らは”ジャップ”と呼んでいるが)と戦った話をし、海兵隊員が沖縄で観た日本人の女の子の話をして、主人公は生きる(そして死ぬ)ことの意味を知る。


荒涼とした砂漠の中でそうやって人は生きていく。軽快だが、どことなく悲しい雰囲気を漂わせるカントリー・ミュージックがそこに寄り添う。

ヒントはそこら中にある。

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