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ウイルスを倒すのはワクチンではない、それは人の思考である

デートに誘われた。男からだが。

三島由紀夫の東大全共闘時代のドキュメンタリー映画で、僕自身彼の作品は好きだし、Youtubeで最近やたらとレコメンドされるなと思っていたところなので、即答でお受けした。


唐突ですが、皆さん、下記についてはどう思います?

コロナウイルスを仕掛けたのはGAFAでありBATXである
日本の救世主たり得たオウム真理教は資本主義原理主義者によって意図的に急進化させられて滅ぼされた

眉を潜めて、いよいよ寺村もどうしようもないところまで来た、と思う人が大半ではないだろうか(まあ、そう思わせてしまう別の材料を僕が少なからず提供しているということは置いておき)。

人間は社会の中で生きているが故に、社会を構成する様々な要素について認知をして、解釈、行動をとることを繰り返す。宇宙の虚空に永久的なエネルギー供給をされた上で1人で漂っているのであれば別だが、この時代に生まれた人類の大半は社会の中で生きることになる。

コロナにせよオウムにせよ、僕が相対した人から聞く話は、それがなんとなく大変なことであり、早く収束して欲しいという思いが背景にある。前者であれば個人としてやれることをやろうということで、人の集まるところを避けようとか、マスクをしたり手洗いをしたりすることになる。後者については、宗教とは悪いものでできるだけそういったものから遠いところにいよう、ということになる。

何が言いたいのか?大半の人は極めて表層で現実的であり、具体的であるということだ。別の言い方をすれば、目の前に起こっている小さな物語の中で生きているということだ。

コロナとは何か?と考える際に、「身体に悪影響を与えるウイルスである」と考え「それをいかに治療して克服するか」を考えるのが小さな物語だ。

一方で、「コロナによって身体的な影響の他に何が起こっているのだろうか?」、「コロナには人間の移動を制限する機能がある」、「それはひょっとすると低い気温や、暴風雨、さらに言えばYoutubeのように家の中で何時間でも楽しめるエンターテイメントなどと同じではないか?」と考えることもできる。

これが大きな物語であり、物事を抽象化して捉えるということだ。抽象化の能力は想像する力と読み替えていただいても結構だ。具体的な事象について、一方引いた目線でその背景にあるメカニズムについて仮説を組み立てていく能力のことだ。

コロナを小さな物語の中で捉えると、それは新型ウイルスでしかないので、疫病を専門とする免疫学の専門家と、彼らのアドバイスを受けながら社会についてある一定の制約をかけることができる政治家たちに何とかしてもらうしかない。要するに彼我の彼方にいる我々にとっては人の近くに寄らず、マスクをし、手洗いをしながら耐えて待つことしかできないのだ。

一方で、大きな物語として捉えると、インターネットとウイルスは「人の動きを制限する」という機能では共通しており、動きを制限してくる社会というものをどう捉えるか、そしてその中で自分、自分の周りの人々はどう生きていくべきなのか(もしくはどう死んでいくのか)、ということを考えるきっかけにもできる。

ここには大きな違いがある。
後者には展望があるからだ。

人はその巨大な脳を使って考えることができる。考えることで展望をつくるのだ。展望があるからこそ生きられるし、逆説的ですがいつでも死ねる。

そして、思考力は鍛えることができる。

常に「一歩引いて考える」ことや、「逆の立場から考える」癖をつけるのだ。話し相手が喋る内容について、移動しながら、ネットサーフィンしながら見聞きしたことについて、この2点を意識して自分の考えにして相手に意見や質問のかたちでぶつけてみることから。

是非、大きな物語を生きてみて欲しい。

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