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忙しい人と仕事をするな。忙しい人と友人になるな

僕は「忙しい」とか「バタバタしている」とか言う人とは友達になりたくない。幸いにして僕の友人関係のほとんどはこういう言葉を発することはなく、むしろ「暇でね」とさえ言う人が多い。
「忙しい」とは「心を亡くす」と書く、そう説明される。その通りだと思う。心が遊んでいる状態、すなわち魂と身体が乖離している状態のことを言っているのだなと解釈している。では、魂と身体が乖離するとどうなるのだろうか。
簡単な話だ。魂と身体が乖離すると病気になる。
そして、不幸になる。
ただそれだけ。
僕の例を挙げる。
僕は鍵盤の練習を初めて10日弱になる。楽曲を聴きながら、鍵盤でコードを弾く練習をしている。ミスをすることも少なくない。不協和音が出ることによってミスを知る。そしてミスが出るのは、だいたい鍵盤演奏に集中できていない時だ。iPad上のアプリを見ているようで、見ていなかったり。
そう、結局、鍵盤演奏にも心が行っていないし、iPad上のアプリの内容を真剣に見ている訳でもない。その時間、僕の心は身体から離れてどこかを浮遊している。ボーッとした状態、まさにそんな感じ。
ボーッとした状態を否定している訳ではない。僕は鍵盤の練習をしようと思い、実際に弾いていたにも関わらず、結果としてボーッとしていたということを問題にしている。そして、すぐに思い直してやり直す。しばらく経って、またボーッとしてミスをする。これは一体どういうことなのだろうか。
楽しんでないんだよね。結局。
もっと言えば、楽しい状態まで集中できていない。
さっきのミスの無限ループから抜け出した僕がとった行動はこう。机の上から集中力の邪魔になるものをすべて排除した(iPadの画面を消す、とかね)。そして、深呼吸して、「今は鍵盤の練習をする時間だ。鍵盤の演奏にすべての心を集中しよう」と思った、いや念じた、かな。声に出ていたかもしれない。
その後、iPadの画面に乱されることもなく、鍵盤に集中して演奏することができた。そして、鍵盤に集中した結果として、一度練習を終えて鍵盤を片付けた後に、楽曲を聴いて自然に目をつぶると、目の前に鍵盤が現れて、それを僕が弾いていた。更に、僕は自然に声を出して、弾いているコードの名前をそのルート音で歌っていた。次に来るコードが何であるのかが何となく想像できた。相対音感みたいなものに少しだけ触れることができた。
何が言いたいかというと、震えるくらい楽しかった。
今まで知らなかった感覚を呼び覚まされたようで。
やる気が出ないから集中できないのではない。
楽しくないから集中できないのでもない。
集中してやらないから楽しくない。
まずは余計なことを考えず、対象に対して集中してやってみる。
(もちろん、そのきっかけとなる体験で直感的に判断したものに限る)
それが答え。
人が話をしているのにPCで何かしている。
目の前の人と会話しているのに別の電話に出る。
とかね。
心を亡くした状態で過ごすから、その時間はなかったことになる。なので、気づけば時間が経過していてビックリすることになる。そして、時間が無駄になったことを後から嘆くことになる。「今年もあっという間だった」とか「時間が過ぎるのは速い」とか言っている人がいたらこう思えば言い。ああ、この人達はボーッとして心、魂の声に向き合わずに無為に過ごしてきたんだな、と。
楽しければ時間は止まる。
止まった時間の中で永遠に遊ぶことができる。
そういう人とだけ付き合えば良いと思うよ。

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