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ただ、ただ気持ちが悪い

人ってのは誰かのスローガンで一致団結するんだろうか?その光景は美しいのだろうか。そして、その後に何が残るのだろうか。


僕が観た光景は、それが雨だったとしても、暗がりだったとしても、光に包まれていた。人がそれぞれの思いの揺らぎの中で自由に感じて、服を脱ぎ捨てて、空間を埋める何かに身を委ね、揺れて。


その揺らぎが、偶然どこかのタイミングで跳ねる。

そこには強い光が伴う。


ライブハウスで、スタジアムで、広州のカラオケキャバクラで、僕はその強い光を見た。それは人が、それぞれの小さな物語を持ち寄って、その物語同士のどうしようもなく小さな部分、共通する部分が繋がった瞬間だった、と思う。


人がつくる小さな物語が光を発するのは、それが過去から未来に向けて流れるからだ。時間というその流れの中で、”人”は変化していく。人それぞれが小さな”変化の芽”を過去の連続としての現在に内包していて、その内包は人によって無限に異なるからこそ、それぞれの物語は面白い。


だから、僕はスローガンが嫌いだし、運動的なるものが大嫌いだ。

いわんや今の風潮を。


過去からの連続としての現在が内包するそれぞれの未来を人に決められてたまるか。そうやって決めつけられたノッペリとした未来に何がやってくるのか?過去が証明している。ろくなことにはならない。


人の行動を縛り付ける権利がどこにあるのか?

そうやって小さな物語を否定することに何の意味があるのか?

それで一体何を護っているのだろうか?


命が大切。そりゃそうだ。ではその命ってのは一体何なのかよくよく考えたことがあるのか?誰の命だ?命が尽きるというのは一体どういうことなのか?では、誰の命をどのタイミングで救うのか?スローガンで全員の命を救うことができるのか?それは誰かの犠牲の上に成り立っているのではないのか?では、誰を犠牲にするのであれば構わないのか?


戦争みたいだよ。

それは、人類の共通の敵とまことしやかに言われている、例の半生命体との戦いでなく、その出現を目の当たりにした人々の心と大政翼賛的な動きが。

本来の敵との戦いで死ぬ人の数よりも、その周辺で死んでいく人の数の方が上回るだろう。リンチされる人、餓死する人、孤立して心が壊れていく人。


戦時中もこういうことだったんだろう。

短く先鋭的な過去の断続的な流れを現在として刹那的に内包する小さな物語が、収束の果てに集まったかつてはそれぞれの物語の集合体としての大きな物語の中に取り込まれていき、輝きを、光を失っていく。


光を失っていく方にも罪はある。

正論は微笑みをまとってやってくる。

考えろ。考えて、考え抜いて、声をあげろ。

そして行動しろ。

光り輝く小さな物語の主人公たちよ

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