【70年代】吉田拓郎はなにを終わらせ、なにを始めたのか
ロック界隈で「ビートルズ以後」や「ニルヴァーナ以後」なんて言葉があります。何人かの若者が1つのジャンルをがらっと変えてしまった。彼らの歌をみんながマネをしてラジオでは似たような曲ばかりが流れました。
しかし思うのですが、数人の若者がポッと出てきて、革命を起こしてしまうほど文化は軟弱ではありません。ビートルズがロックを変えたのは事実でしょう。でもビートルズを登場させた時代の呼びかけがあってこそです。彼らの革命は歴史の文脈に沿ったもので、やたらめったらぶち壊したわけでは決してないのです。
吉田拓郎も日本音楽のエポックメイキング的存在と言われてます。たしかに「拓郎以前」と「拓郎以後」で日本の音楽、特にフォークソングはガラッと変わりました。
ある人からみると、それまでマイナーだったフォークを、メジャーの舞台へ引き上げた立役者。別の人からみると、フォークを堕落させ終わらせた張本人と言われています。
この拓郎の歌がウケた背景にも時代の流れが関係しています。たった1人で音楽の1ジャンルを終わらせるなんてできはしません。前置きが長くなりましたが、今回は吉田拓郎の変えた時代について書いてみます。
◆拓郎以前のフォーク
60年代後半、フォークソングと学生運動は切り離せない関係にありました。「政治の季節」と言われた時代、若者は大学で政治を語り、徒党を組み、国家権力と対立して、自由を叫んでいた。
フォークソング自体はアメリカで昔から歌われている民謡的なものです。ギター1本で民衆のうたを歌っていました。けれども日本に輸入されたフォークは形を変え、学生たちが肩を組んで理想を共有する格好の媒体となります。
そんな時期、フォークの神さまと言われたのが岡林信康です。代表曲「私たちの望むものは」を大声で合唱する学生はわんさかいたそうです。
歌詞をみると当時の空気感がよくわかります。キーワードは歌のなかで執拗に繰り返される「私たち」。私たちは行動を起こすことで社会を変えれられる。サルトルの実存主義なんかが流行って、こんな歌が大合唱されている時代、若者は明るかった。本人たちは明るいなんて感覚よりも闘争しているという意識があったでしょうが、集団で闘争する元気があったといえます。
◆「私たち」の歌から「私」の歌へ
では吉田拓郎はなにを歌ったのか。集団にとけこむことのできない個人の、私の歌でした。「今日までそして明日から」はそのことをよく表しています。
70年代、実存主義やヒューマニズムは廃れ、学生運動は終わり、みんなで集まって社会を変えていく、なんて価値観が挫折します。結局、「私」がどれだけ集団に参加して運動しても、なにも変わらない。そんな風潮が強くなると、逆説的に「私」を強く意識する個人主義の時代が来ます。なにもできない私がどう生きればいいのか。拓郎の歌の1つのモチーフです。
60年代末に活躍した岡林と70年代に受け入れられた拓郎。意外にも2人は同い年です(1946年生まれ)。しかし両者のあいだには埋めることのできない視点の違いがあるように思えます。
◆拓郎以後のフォーク
しばしば拓郎はフォークを終わらせたと言われます。拓郎を批判する人は政治的なフォークをラブソングや流行歌にしてしまったと考えているのでしょうが、すでに述べたようにぼくは少し違った見方をしています。
では拓郎の登場以後フォークではどんな歌が流行ったのでしょうか。最後に拓郎以後のフォークとして井上陽水の「傘がない」(1972年)をあげておきます。
そこには60年代の若者なら憤り、行動した政治的な問題があった。でも歌の「私」は参加することなく、新聞やテレビで外から眺めている。ただ遠くで見ている。それよりも問題なのは、雨が降っているのに傘がないことなんだ。
「傘がない」では岡林の歌のようなエネルギーはありません。今日のぼくらにまで続くけだるげな若者の姿がリアルに描かれています。
◆まとめ
吉田拓郎が登場した時代について考えてみました。(若干、陽水に熱いれすぎましたが…)。いまの若者が拓郎の歌を聴いたらどんな感想をもつでしょう。
「退屈、長い、古臭い、なにがいいたいかわからない」
流行りの激しいメロディーとわかりやすい歌詞になれた耳にはそんな風に聴こえるかもしれません。でも70年代の若者は拓郎の新しさに度肝を抜かれました。なにが青年たちの心を打ったのか。その歴史を知ると、拓郎の歌も違って聴こえてくるかも。
ぼくはフォーク史に関係なく吉田拓郎の歌が好きです。ただ同世代に拓郎を聞く人はほとんどいない。一見古臭い拓郎を聴くきっかけになればと語ってみました。次回ぼくの考える拓郎の歌詞の魅力を拓郎のうただけで書いて終わろうかと思います。ではまた。
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