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聞き手が必要な文系、いらない理系。

文学部不要論、エビデンス主義、ひろゆき……。ここ10年のいくつかの流行は文系(人文知)の軽視で共通している。今日は文系がなめられきった時代だ。なぜこのような事態になったのか。今回の記事では「聞く」に注目して考える。


◆人文学者のむなしい抵抗

人文知の凋落に文系研究者は様々な発言をしてきた。たとえば以下のように。

「文系はビジネスに役立つ」
「人文知を知っているとかっこいい」
「馬鹿は文系の味わいを知らない」
「文系こそ個人の葛藤をすくい上げられる」

ざっくりまとめると、①金儲けの話か、②マウントを取るか、③個人のケアか、はたまた④絶望して自分の研究にこもるか、4択におさまる気がする。自戒を込めて言えば、ぼくも③の立場で考えていることが多い。ただこれでは「理系脳」を説得できない。次のように「論破」されて終わりだ。

「文系はビジネスに役立つ」
→そんなのなくても稼いでますけど。
「人文知を知っているとかっこいい」
→ダサくていいです。
「馬鹿は文系の味わいを知らない」
知らなくていいです
「文系こそ個人の葛藤をすくい上げられる」
生きづらそう。俺はそんなこと考えてないし、体調悪くなったら病院行く。

戯画的に書いたが、最後の「生きづらそう」というのは実際に言われたことがある。こうした人をエセ理系と一蹴することはできない。無視するには数が多すぎるし、日本中を覆う空気になりすぎている。


◆仏教は聞き手がいたから存在する


仏教に梵天勧請という重要なエピソードがある。

釈迦が長い瞑想の後、真理を悟ったときのこと。言葉を超えた悟りを言葉で語るのは不可能だし誤解を招くだけだから、そのまま1人静かに死のうとした。

そこで梵天という神様が来る。
「すべての人があなたの教えを理解することはできないだろうけど、一部必要としている人はいるのです。その人たちに教えを説いてください」
梵天の長い説得の末、釈迦は人々に自分の悟りを語る無理ゲーを開始する。そんな話だ。

梵天勧請が実話だったかは置いといて、この説話から仏教がいかに聞き手を大事にした宗教なのかがわかる。「話を聞きたい」という人(神?)がいなければそもそも仏教は始まらなかったのだ。釈迦の死後500年経って誕生した大乗仏教ではさらに聞き手が大切にされ、話し手と聞き手が等価という説が出てくる。ちゃぶ台を返すようだが、少し前までぼくはこの考えが偽善っぽく嫌いだった。

坊さんの法話で「聞く人があるから話す私もいるのです」などと聞くと、「なにを大袈裟な。。」と思っていた。確かに聞き手は大事だ。しかしそもそも面白い話をする人がいるから聞く人が集まるのだろう。そう思っていた。だがここ最近考えが変わってきている。


◆文系には聞き手が必要


ぼくには梵天勧請が人文知にもあてはまるように思えてならない。どういうことか。人文知は内容を理解したいと強く願う人がいなければ無価値なのだ。たとえばフランス現代思想は論理では扱えない人間の心の奥の不気味さを扱った。自然と文章はわかりにくく、文学的にならざるを得ない。このよくわからない不気味な何かを知ろうと深堀りしていく営みは豊かで面白い。ただし話を聞こうという態度で読まないと理解できない。うさんくさいだけだ。

今日はエビデンスがなければ「感想」と一蹴される時代である。統計は耳をふさいでも理解できる。なまじ理系っぽさに侵された人間は人文知のわかりづらさを馬鹿にする。理解しようとしない人間が聞き手を演じると「あなたの言っているのはよくわからない」と得意げに言える。

学校でもそうだ。誰もが「わからない」と言える教室は健全だが、誰も「わからない」を恥ずかしがらない教室は恐ろしい。科学・実証主義が流行っているのは決して最近の話ではない。しかし30年前までは良かれ悪しかれ「知らないことが恥ずかしい」風潮があった。それが今日欠けている。聞き手の能力不足がすべて話し手のせいにされる。「俺たちにもわかるように話してよ。データとか根拠を出してよ」と。


◆ホンモノの理系は聞く力がある

もちろん理系の学問を突き詰めて考える人はエビデンス主義には陥らないだろう。医者だったら人間の身体に、天文学者だったら宇宙に、数学者だったら数の奥深さにビビって一発でわかる答えに飛びついたりはしない。わからない、わからないと唸り、研究を深めているはずだ。

ぼくが批判しているのはもっと低俗な「理系っぽい空気感」だ。

「聞きたい、知りたい、わかりたい」そんな切実さがなくにやにやして「わからない」という連中にどう抵抗すればよいのか。どう今の仕事と結びつけられるのか。


◆入門書の形を変えなければ!


1つの理想は「一発でわかる本」をつくらないことだ。人文知の凋落の原因は、理系学問の発展より、文系内部にあると思う。80年代、「ニューアカデミズム」なんて言われて知識がファッション化された。みんながなんとなく哲学を知った気になっていた。わかりやすい本が大量につくられた。そして売れた。

ただ「1冊でわかるフロイト入門」なんて本がつくられまくったら、ひとは立ち止まって考えることを忘れ、効果だけを追い求めるだろう。「そもそもフロイトなんて読まないで精神療法すればよくね?てか薬飲めばよくね?哲学いらなくね?」となるだろう。

フロイトは難しい。だから入門書をつくることは否定しない。ただフロイトの思想をもっと読みたくなる本を作らなければいけない。間違えても「これ1冊ですべてわかる!」なんて本はつくってはいけないのだ。

そういう意味で文章は誰でも読めて、かつハイデガーやユクスキュルを読みたい気にさせてくれる國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』なんかは理想的な本だ。

なんだか結論としては非常にありきたりなものになってしまった。今の大人には期待せず将来の啓蒙を、という感じだ。これでいいのだろうか、もっと何かできるのか、編集者として社会との関わり方については追々深めていきたい。

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