見出し画像

無料塾が人をつくる|第2章-2|皐月秀起

ゴールキーパーとの出会い

中学は、兵庫県西宮市にある中高大一貫校の関西学院中学部に進学しました。今でこそ男女共学で幼稚園から小学校~大学までありますが、私の時代はバリバリの男子校。彩りのない、男臭い学校でしたが、私にはそれが合っていました。部活は野球とサッカーのどちらにするか、悩みに悩んでサッカー部を選びました。

中学1年生の終わりに、サッカー部のコーチに私ともう1人が呼ばれました。何事かと思ったら、「どちらか、ゴールキーパー(以下、キーパー)をやってほしい」と。サッカーのキーパーとは、四角いゴールの前に立っていて、手袋(キーパーグローブという)をして、よく見ると1人だけユニフォームが違う、そう、その人です。

先輩のキーパーが引退したことはもちろん分かっていましたが、自分に声がかかるとは思っていませんでした。サッカーは11人で戦うスポーツですが、キーパーがいないと試合はできません。11人の中で唯一「手が使える」ポジションですから、誰でもいいというわけにはいきません。

身長が180センチあった2人に白羽の矢が立ったわけですが、できることならばキーパーはやりたくありませんでした。そりゃあ、グラウンドを走り回って、ゴールを決めるのがサッカーの醍醐味ですから。ゴールにずっとへばりついているのは嫌だなあと思っていました。でも、声がかかっているもう1人が、部活とは別にプロ養成スクールに通っているくらい将来を渇望されている選手だったので、「彼をキーパーにするわけにはいかないなあ」と、比較的あっさりとキーパーを引き受けました。結局、この決断が私という人間をつくる大きな礎となりました。

キャプテンになる

中学2年生からキーパーになった私は、ポジションにも慣れ、試合にも出られるようになりました。ガツガツ攻撃的に攻めるよりも、じっくり構えてゴールを守るほうが、思いのほか性に合っていました。

高校も、そのまま関西学院高等部に進学しました。最初は高校のスピードと力強さにかなり戸惑いました。最初の練習のときに、3年生の放ったシュートをキャッチしようとしたら、ボールの勢いに押され、そのまま顔面にボールが当たり、ひっくり返ったことは今でも忘れません。それでも、運よく1年生から試合に出られるようになり、全国大会こそ手が届きませんでしたが、1年生のときは兵庫県でベスト4、2年生のときはベスト8。かなりの手応えを持って、高校3年生になりました。

高校3年生になると、初めてキャプテンに任命されました。先輩からも「お前しかいない」と言われていましたし、投票も満場一致でした。1年生から試合に出ていましたし、正直「自分しかいない」とも思っていました。自信を持って「最終学年でこそ全国大会出場を!」と相当気合が入っていました。

練習をボイコットされる

夏前のある日のこと。2年生が練習に来ません。それも1人も。おかしいなと思いつつ、いつもの通り練習を始めると、2年生の1人がやって来て、「皐月さんのやり方には納得ができないので、改まるまで練習に来ません」と告げられました。1年生のグラウンド整備の不出来を「2年生の指導不足」として、罰走を連日させていたキャプテン(私)に納得ができないというのが理由でした。

そうは言っても、しばらくしたら練習に来るだろうと思い、放っていましたが1日経っても2日経っても2年生は来ません。さすがにこのままではまずいと、3日くらい経ってようやく3年生同士で集まり、対策を話しました。そこで私はてっきり同じ3年生は「練習をボイコットなんかする2年生が悪い」と言ってくれると思っていたところ、「2年生の不満は自分も聞いていた」とか「いつかこうなると思っていた」とか、2年生を擁護する意見が噴出しました。このあたりから、遅まきながら私自身が事の重大さを認識しはじめました。

そうこうしていると、サッカー部内だけでなく校内でも「サッカー部大変そうやな」「2年、練習来ないらしいな」と噂が広がりつつあり、周りの視線もだんだん気になってきました。私は、サッカー部のキャプテンだけでなく、生徒会の中で運動部を取りまとめる運動総部長もしていました。「運動総部長の率いるサッカー部が内紛」、格好のネタでした。

#全文公開 #小説 #読書 #教育 #子ども #ボランティア #リーダーズカフェ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?