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※講読途中【書籍】『致知』2024年9月号(特集「貫くものを」)読後感

致知2024年9月号(特集「貫くものを」)における自身の読後感を紹介します。なお、すべてを網羅するものでなく、今後の読み返し状況によって、追記・変更する可能性があります。



心の持ち方一つで今ここを彼岸に 青山俊董さん(愛知専門尼僧堂堂頭)p7

 青山氏による巻頭の言葉は、心の持ち方がいかに重要かを説いています。氏は「心の持ち方一つで天地総力をあげてのお働きをいただいている」と述べ、私たちが日常的に受けている無形の恩恵を示しています。
 特に彼岸の時期に注目し、これが春秋に訪れる自然のリズムと調和していることを説明しています。彼岸は太陽が真西に沈む時であり、西方極楽浄土への道が開かれる象徴的な瞬間であるとされています。この西方を指し示す事象は、浄土宗において特に重要な意味を持ち、「西」という文字が頻繁に用いられる理由です。

 また、青山氏は柳宗悦の言葉を引用し、「浄土は『ここ』の『いま』に在る」と現代における浄土宗の教えを解釈しています。これは、理想的な境地や悟りが遠い未来や特定の場所にあるのではなく、現在、ここに存在するという哲学的な見解を示しています。
 この考えは、私たちが日々の生活の中で何を感じ、どう行動するかによって、自らの心理的な浄土を創出することができるという教えに繋がります。

 『摩訶般若波羅蜜多心経』における「波羅蜜多」の部分にも触れ、これが「到彼岸」と訳されることから、達成や到達を意味することを強調しています。白隠禅師や余語巌老師の解釈を例に挙げ、彼岸は単なる地理的な概念ではなく、精神的な達成の状態を示すと説明しています。白隠禅師は「裏」と訳し、真の理解や悟りは表面的な探求ではなく、内面的な覚醒によって達成されると述べています。

 さらに、南北朝時代の大智禅師の教えや、永平寺の元貫首、秦慧玉禅師の解釈が引用されています。これらの教えは、過去完了形で「道始めより成ず」と表現されており、道や悟りが過去から既に完了している状態であるとしています。
 これは、私たちがこの世に生を受けた瞬間から、天地総力の恵みを受けているという考えに基づいており、日々の生活に感謝し、それに応じた生き方をするべきだというメッセージです。

 青山氏は、四国の仏教詩人・坂村真民先生の詩を引用し、病いが新たな世界を開く機会を提供するという考えを紹介しています。逆境や困難が実は心の成長にとって重要な役割を果たすことを示唆しており、苦悩を通じて精神的な浄土を実現する道があると説いています。
 また、白隠禅師の言葉を用いて、心の状態がどのように私たちの体験や世界観を形成するかを説明しており、心が病んでいるときには、その苦痛がどれほど深刻であるかをしめしています。

 青山氏は、適切な師と教えに出逢うことで、生命の尊さとそれにふさわしい生き方の重要性に気づくことができると結論づけています。
 これは、日々の挑戦や困難に直面しても、正しい心持ちと行動でそれを乗り越え、精神的な平和を実現することができるという希望に満ちたメッセージとなるでしょう。

リード:藤尾秀昭さん 特集「貫くものを」p11


 今月は、人生を通じて一貫性を持って生きることの重要性に焦点を当てています。高浜虚子の有名な一節「去年今年貫く棒の如きもの」を引用することで、読者に自らの内面に問いかけ、自身の人生において何を貫くべきかを考えさせます。虚子自身が何を貫いたのか具体的には明らかにされていませんが、この句は強い決意と生き方への誘いを感じさせる力を持っています。

 『致知』自体も創刊以来46年間、一貫した理念を持ち続けており、その姿勢が多くの読者に影響を与え、支持されています。今月は、「社内木鶏全国大会」でのエピソードに焦点を当て、全国から集まった1150名の参加者が経験した熱気と共感を表現しています。
 この大会での発表はどれも印象的であり、感動大賞に選ばれた宮田運輸の発表をはじめ、多くの参加者が心を動かされた瞬間が紹介されています。

 中でも、神奈川電設の忠本知也氏の話は特に心に残るものだったのこと。彼は自身の辛い過去、特に愛情を知らずに育った孤独と困難に満ちた幼少期を明かし、それがどのように彼の人生観を形成してきたかを語ります。
 忠本氏は、社内の「木鶏会」と「致知」に出会ったことで人生が変わり始めたと述べています。それまで自分の困難を社会や他人のせいにしていた彼は、自分自身から行動を起こすこと、自分のためではなく他人のために生きることを決意し、その結果、自己開示ができるようになったと語っています。これは、私自身も感覚的に理解できます。私自身も、致知と木鶏会の出会いが人生を変えたという感覚を強く持っています。

 さらに、刑務所に収容されている人物からの手紙を引用しています。この人物は「致知」に出会ったことで、自分の人生を新たな目で見ることができ、困難さえも学びとして受け入れるようになったと述べています。彼は今後も社会や他人のために生きていくという強い決意を示しており、「致知」の学びが彼の人生にどれほど深く影響を与えたかが伺えます。

 最後に、『致知』がこれまでの46年間、どれだけ多くの人々の心に影響を与え、彼らの運命を変える手助けをしてきたかを総括しています。

 哲学者森信三の言葉「2050年、列強は日本の底力を認めざるを得なくなる」を引用し、自身も「致知」の精神を持ち続けることが、より良い未来への貢献につながると強調して締めくくっていました。

 ともすると忘れてしまいがちな、「貫くもの」。再度認識を新たにしたところでした。

iPS細胞を活用したがん治療で夢の医療を実現するー金子新さん(京都大学iPS細胞研究所教授)髙田明さん(A and Live代表取締役/ジャパネットたかた創業者)p12

 医学界で注目を集める京都大学iPS細胞研究所教授の金子新氏と、ビジネス界の重鎮であるジャパネットたかた創業者の髙田明氏による、深遠かつ示唆に富む対談です。
 この対談は、最先端の医療研究と、その成果を一般の人々に分かりやすく伝える方法について、多角的かつ深い洞察を提供しており、科学とコミュニケーションの融合の重要性を示しています。

iPS細胞技術を活用した革新的ながん免疫再生治療の研究(金子氏)

 金子氏は、iPS細胞技術を活用した革新的ながん免疫再生治療の研究に情熱を傾けています。彼の研究の核心は、患者自身のT細胞からiPS細胞を作製し、それを増殖させた後、再びがんと戦うT細胞に分化させるという画期的な方法にあります。
 この治療法は、個々の患者に合わせたオーダーメイド医療を可能にし、従来の治療法では難しかったがんの撲滅に新たな可能性を開くものとして、医学界のみならず、がん患者とその家族からも大きな期待が寄せられています。

 金子氏の研究は、単なる理論にとどまらず、実用化に向けた具体的な取り組みも進んでいます。彼の研究チームは、この革新的な治療法を実現するため、大手電機メーカーであるパナソニックと共同で「MyT-Server」という小型自動培養装置の開発に取り組んでいます。
 この装置は、個別治療用T細胞の製造工程を簡便な操作で実行できるようにすることを目指しており、高度な医療技術を身近なものにする可能性を秘めています。これが実現すれば、がん治療の現場に革命をもたらし、多くの患者の治療へのアクセスを劇的に改善する可能性があります。

 金子氏が掲げる壮大な目標は、「誰でも、どこでも、いつでも」最新の個別免疫治療を受けられる世界の実現です。この目標は、医療の民主化と言えるもので、世界中のあらゆる人々が、経済状況や地理的条件に関わらず、最先端の医療の恩恵を受けられるようにすることを意味しています。
 彼は、アフリカの貧しい家庭でも、この技術のおかげで命が救われるような世界を夢見ており、その実現に向けて日々研究に邁進しています。この ビジョンは、単に医療技術の進歩だけでなく、グローバルな健康の公平性を追求する点で、社会的にも大きな意義を持っています。

金子 このプロジェクトで目指しているのは、「誰でも、どこでも、「いつでも」最新の個別免疫治療の恩恵を受けられるようにしたいということです。例えば、よくイメージするのは、アフリカの貧しい家庭であっても、「この技術があったからお母さんが助かった」っていう世界を実現したいんです。その時に、多くの患者さんのがんに共通に出ている標的を見分けるT細胞を大量につくって大量に届ける、という考え方が免疫治療の世界にもあるんですけど、それ一本だけでは四角い部屋を丸く掃除をしているようなもので、隅々には行き渡らない。

『致知』2024年9月号 p15より引用

専門的な内容を一般の人々に分かりやすく伝えることの重要性(髙田氏)

 一方、髙田明氏は、自身の豊富なビジネス経験から、専門的な内容を一般の人々に分かりやすく伝えることの重要性を強調しています。髙田氏は、どんなに優れた技術や製品であっても、その価値を適切に伝えられなければ意味がないと指摘し、金子氏の研究成果を効果的に伝えるための具体的な助言を行っています。
 彼は、自身のテレビショッピング事業での経験を基に、複雑な情報を簡潔かつ魅力的に伝える技術について詳しく説明しており、これは医療研究の成果を一般社会に浸透させる上で極めて重要な視点を提供しています。

日々精進し、諦めない

 両氏は、夢を持ち続け日々精進すること、そして諦めずにやり続けることの大切さについて熱く語っています。金子氏は、研究の過程で直面した数々の困難や挫折、それにもかかわらず諦めずに研究を続けてきた経験を赤裸々に共有しています。
 一方、髙田氏も自身のビジネス経験から、継続の力の重要性を強調し、成功の裏には常に地道な努力と不屈の精神があることを力説しています。
 この対談で、異なる分野で成功を収めた二人の専門家が、成功の本質について共通の見解を持っており、読者に大きな励ましと与えてくれます。

 また、金子氏の研究開発の詳細な経緯や直面している課題、そして今後の展望についても詳しく語られています。金子氏は、iPS細胞技術を用いたがん免疫治療には、自家移植と他家移植の二つの方法があることを説明し、それぞれの利点と課題について述べています。自家移植は患者自身の細胞を使用するため拒絶反応のリスクが低い一方で、製造に時間とコストがかかるという課題があります。
 他方、他家移植は大量生産が可能で迅速な提供が可能ですが、拒絶反応のリスクが存在します。金子氏は、これらの課題を克服するための研究の現状と、将来の展望について詳細に語っており、読者に最先端の医療研究の実態を垣間見せています。

 また、がん細胞を効果的に攻撃するためには、T細胞に特定の機能を付加する必要があることも明らかにしています。金子氏は、がん細胞が持つ様々な防御機構を克服するために、iPS細胞技術を用いてT細胞に新たな機能を追加する研究についても言及しており、この分野の研究の奥深さと可能性を示しています。

 さらに、金子氏は研究の社会的意義についても熱く語っています。彼は、この研究を通じて人々の命を救い、世界中の人々が最新の医療の恩恵を受けられるようにしたいという強い願いを表明しています。
 彼の研究は、単なる科学的な挑戦ではなく、人類の健康と幸福に直接貢献する可能性を秘めた、極めて意義深いものであることが伝わってきます。この部分は、科学研究が持つ社会的責任と可能性を強く印象づけており、読者に科学の重要性を再認識させる効果があります。

まとめ
 
この対談は、最先端の医療研究から、その成果を社会に還元するためのコミュニケーション戦略まで、幅広いトピックをカバーしています。科学者、医療従事者、ビジネスパーソン、そして一般の読者まで、幅広い層に有益な情報と洞察を提供しています。私も一人の人事パーソンとして非常に学びの多い内容でした。
 科学技術の進歩が人々の生活にもたらす可能性と、その実現に向けた課題を明確に示しており、今後の社会の在り方を考える上で重要な問いを投げかけています。人事領域の応用も多そうです。


与えられた運命を生かす──95歳の名女将が語る〝不可能を可能に変えてきた道のり〟ー佐藤幸子さん(かみのやま温泉 古窯 大女将)p22

 佐藤さんは、山形県上山市にある老舗旅館「古窯」の大女将として、95歳の今もなお精力的に活躍しています。創業73年を誇る「古窯」は、その卓越したおもてなしと革新的な経営で、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」において40年以上連続してトップ10に選ばれる名門旅館となっています。

 佐藤さんの旅館経営の物語は、21歳の時に始まりました。義母から300坪の温泉つきの土地と、中身の入っていない金庫をもらったことがきっかけでした。当時、佐藤さんは旅館経営に対して特別な思い入れがあったわけではありませんでした。しかし、与えられた環境を最大限に活用しようという決意のもと、実家の築200年ほどの古い旅館を半分壊して持ってき、7部屋の小さな旅館としてスタートを切りました。

 創業当初の状況は、現代の私たちには想像もつかないほど厳しいものでした。水道も電気も電話もない環境で、川から天秤棒で水を運び、電話を借りるために30分も自転車で走らなければならないという、まさに徒手空拳からの出発でした。布団が足りずに自分の着物を解いて縫い合わせたり、お風呂の温度調節のために雪を入れたりと、今では考えられないような苦労の連続でした。

「すべて人のせいにしない」という教え

 このような困難な状況の中で、佐藤さんを支え続けたのが、義母から受けた「すべて人のせいにしない」という教えでした。この言葉を胸に刻み、与えられた運命を甘受し、前向きに努力を重ねていく姿勢が、佐藤さんの経営哲学の根幹となりました。「朝の来ない夜はない」という言葉を信じ、どんな苦境に陥っても必ず道は開けると信じて歩み続けました。この強靭な精神力が、後の「古窯」の成功を支える大きな力となったのです。

創意工夫を重ねる

 佐藤さんの経営の特徴として挙げられるのが、常に創意工夫を重ねる姿勢です。30代の時に経験したアメリカ視察が、佐藤さんの経営観に大きな転機をもたらしました。特に印象的だったのが、ディズニーランドの広大な駐車場でした。休園日に訪れたことで、一万台もの車が駐車できる広大な敷地を目の当たりにし、「手の届かないものを見る」ことの重要性を痛感しました。この経験が、佐藤さんの発想を大きく変え、後年の大胆な経営判断につながっていきました。

 最も顕著に現れたのが、昭和47年に一度に5軒の旅館を買収するという決断でした。当時としては驚くべき規模の拡大でしたが、アメリカでの経験を糧に、躊躇することなく即断即決で買収を決めたのです。この決断は、多くの人々に驚きと不安を与えましたが、佐藤さんの先見の明が「古窯」を新たな段階へと押し上げる原動力となりました。

危機から新しい発想を

 しかし、旅館の拡大に伴い、予期せぬ危機に直面することになります。それは、従業員の大量離職の危機でした。買収した旅館を渡り廊下でつないだことで、従業員は重いお膳を持って広い館内を移動しなければならず、その負担が限界に達していたのです。この危機に直面した佐藤さんは、従業員の声に真摯に耳を傾け、解決策を模索しました。

 そして生み出されたのが、「宴会のできる少人数様用の食事処」を設置するという逆転の発想でした。当時、旅館で食事処を設けるという発想はほとんどなく、コンサルタントからも成功例はないと言われる中、佐藤さんは自身のアメリカでの経験を基に、この革新的なアイデアを実行に移しました。さらに、著名人のサインが入った「らくやき画廊」を併設することで、単なる食事処ではなく、他にはない魅力的な空間を創出することに成功しました。

 この革新的なアイデアは大きな成功を収め、従業員の離職危機を乗り越えただけでなく、「古窯」の評価を大きく高めることにつながりました。この成功は、佐藤さんの創意工夫の精神と、困難を好機に変える力を如実に示すものとなりました。

従業員との関係

 佐藤さんの経営哲学は、従業員との関係にも深く反映されています。社訓として「争いよりは友情を 非難よりは理解を 愚痴よりは建設を」を掲げ、毎朝従業員と共に唱和しています。この言葉には、相手の立場に立って考え、互いを理解し合うことの大切さが込められています。

 さらに、佐藤さんは従業員に対して、人の欠点を指摘するのではなく、良 いところを探すことの重要性を説いています。「欠点なんか誰に言われなくたって簡単に見つかる。だから、欠点を指摘し合うのではなくて、相手のいいところを探しましょう」という佐藤さんの言葉は、ポジティブな職場環境を作り出す上で大きな役割を果たしています。

 また、「できる方向に話を持っていく」ことを重視しています。会議の際には必ず「できる方向に話を持って行くようにしていきましょうね」と伝え、困難な状況でも可能性から発想することを奨励しています。この姿勢が、「古窯」の絶え間ない革新と成長を支える原動力となっているのです。

 信条として最も重要なのが、「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という上杉鷹山の言葉です。この言葉に表されるように、佐藤さんは悩みを火種にしてとにかくやってみる姿勢を大切にしています。諦めずに努力し続ければ必ず実現できると信じ、その信念を行動で示し続けてきました。

与えられた運命を生かす

 佐藤さんは自身の人生哲学を「与えられた運命を生かす」と表現しています。苦しい時こそ前向きに考え、一所懸命に努力を続けることで、必ず助けてくれる人との出会いがあり、より良い方向へ発展していくと信じています。この哲学は、佐藤さんの70年以上にわたる旅館経営の中で、幾度となく実証されてきました。

 例えば、改築工事の際に出会った大工の棟梁との逸話は、佐藤さんの哲学を象徴する出来事です。佐藤さんの真摯な仕事ぶりに感銘を受けた棟梁が、自身の貯金1000万円を無担保、無利子で貸し出すと申し出たのです。この予期せぬ助力により、当時としては珍しいバス・トイレ付きの客室を6部屋設置することができ、「古窯」が一流ホテルの仲間入りを果たす大きなきっかけとなりました。

 佐藤さんの70年以上にわたる旅館経営の歩みは、『易経』の「窮すれば即ち変ず、変ずれば即ち通ず、通ずれば即ち久し」という言葉に表されるように、困難に直面しても変化を恐れず、新しい道を切り開いてきた軌跡といえます。苦境に立たされても、それを否定的に捉えるのではなく、成長の機会として前向きに捉え、創意工夫を重ねることで乗り越えてきました。

 佐藤さんは、鮭の生態から人生の教訓を得た経験も語っています。鮭が海から川に戻る際、塩水から真水に慣れるために一週間ほど川と海を行き来する時期が、最もおいしい時期だと聞いて、人間も同じように苦労している時こそが人生で最も素晴らしい時期なのではないかと気づいたといいます。この気づきが、困難を恐れず、むしろそれを成長の糧として捉える佐藤さんの姿勢をさらに強化したのでしょう。

 佐藤さんの生き方と経営哲学は、時代を超えて多くの人々に影響を与え続けています。困難を恐れず、創意工夫と前向きな姿勢で道を切り開いていく姿勢は、現代のビジネスパーソンにとっても大きな示唆を与えるものです。与えられた環境を最大限に活かし、常に新しい挑戦を続ける佐藤さんの姿は、年齢を重ねても輝き続ける生き方の模範といえるでしょう。

 95歳を迎えた今も、佐藤さんは旺盛な好奇心と学ぶ姿勢を失っていません。日々のお客様との対話から新しい学びを得ることを喜びとし、旅館業を天職だと感じています。この姿勢こそが、「古窯」が長年にわたって高い評価を維持し続けている秘訣なのかもしれません。

 佐藤さんの人生と「古窯」の歴史は、日本の旅館業界における伝統と革新の調和を体現するものであり、困難を乗り越え、絶えず進化し続けることの重要性を私たちに教えてくれています。その生き方は、ビジネスの世界だけでなく、人生全般において、私たちに勇気と希望を与え続けているでしょう。


おとうふの可能性をどこまでも切り開いていくー鳥越淳司さん(相模屋食料社長)p40

 鳥越氏は、2007年にわずか33歳で相模屋食料の社長に就任し、短期間のうちに会社を豆腐業界のトップへと導きました。鳥越氏が入社した2002年当時、会社の年商はわずか28億円でしたが、2009年度には業界で初めて100億円を突破し、直近の年度では410億円という驚異的な成長を遂げています。これは業界2位の会社の2.5倍以上の規模であり、豆腐業界では異例の急成長として注目を集めています。

 鳥越氏は元々は、雪印乳業に勤務していた経歴を持ちます。雪印における経験、特に2000年に発生した雪印乳業食中毒事件での対応(お客様に詳細の状況を説明できず)を通じて、ものづくりの重要性と現場を知ることの大切さを痛感しました。この教訓を活かし、相模屋食料に入社後は2年間、毎日深夜1時に出勤して製造現場に入り、豆腐づくりを徹底的に学びました。この姿勢が、後の商品開発や経営判断に大きく影響していると思われます。
 私も事務屋ではありますが、製造業の経験は長く、よく理解できます。

 相模屋食料の成長戦略の一つとして、鳥越氏は苦境に陥った地方の豆腐メーカーの救済M&Aを積極的に行ってきました。これまでに12社の再建に取り組み、そのうち10社の黒字化を実現しています。
 鳥越氏の救済アプローチの特徴は、既存の設備と人材を活かし、各社の強みを引き出すことにあります。特に、現場の職人の技術や知識を尊重し、彼らのモチベーションを上げることで、本来の良質な豆腐づくりを復活させる手法が功を奏しています。

 商品開発においても、鳥越氏のリーダーシップが発揮されています。2012年に発売された「ザクとうふ」は、従来の豆腐の概念を覆す画期的な商品として大ヒットしました。アニメに登場するモビルスーツを模した形状の豆腐は、発売から2ヶ月余りで販売数100万個を突破。特に、これまで豆腐の主要購買層ではなかった30代、40代の男性を新たな顧客として獲得しました。この成功を皮切りに、「ひとり鍋シリーズ」や「BEYOND TOFU」など、豆腐の新しい食べ方や食シーンを提案する商品を次々と開発し、豆腐市場を拡大させています。

 社内マネジメントにおいて、鳥越氏は「おいしい豆腐をつくろう」という シンプルながらも力強いメッセージを社員に伝え続けています。複雑なメッセージを出してしまう企業も多くありますが、何よりもシンプルさは重要です。
 また、アイデアを迅速に形にすることを重視し、「リスクがついてこられないくらいのスピードで進めばいい」という姿勢で、社員の積極的な行動を促しています。この方針は、コロナ禍での柔軟な生産体制の構築や、顧客ニーズへの迅速な対応にも活かされました。

 鳥越氏は、逆境や困難を恐れず、むしろそれらを成長の機会として捉えています。日々の工場でのトラブルや、新しい挑戦に伴う困難を、社員と共に乗り越えていくことで、組織の結束力と問題解決能力が高まっていったと語っています。

 相模屋食料の今後の展望について、鳥越氏は豆腐文化を守りつつ革新を続けることが重要であるとしています。伝統的な地豆腐を復活させると同時に、新しい豆腐の可能性を追求することで、豆腐の世界をさらに広げていく意向です。また、2018年と2019年には国連ニューヨーク本部のSDGs推進会議でスピーチを行い、プラントベースドフードとしての豆腐が世界の食料危機解決に貢献できる可能性について語りました。

 鳥越氏の経営哲学を象徴する言葉として、「夢は見るものではなく、叶えるもの」があります。これは、「ザクとうふ」の開発時に多くの人から冷ややかな反応を受けながらも、実際に大ヒットを生み出した経験から得た信念です。鳥越氏は、これまでの成功体験を基に、どんな困難も乗り越えられるという自信を持ち、豆腐業界の更なる発展と、豆腐を通じた社会貢献を目指し続けています。

 鳥越氏の豆腐への深い愛情と情熱、そして革新的な経営手法が、相模屋食料の急成長と豆腐業界全体の変革をもたらした様子を生き生きと描いています。伝統と革新のバランスを取りながら、常に新しい挑戦を続ける鳥越氏の姿勢は、他の産業にも応用できる貴重な経営のヒントを提供しているといえるでしょう。


貫くものをもって努力を続ければ、苦難は必ず人生の糧になるー
石田和雄さん(将棋棋士九段)p50

 石田氏は、将棋棋士して長年活躍してきました。
 現在は千葉県柏市で将棋センターと子供将棋教室を運営し、多くの優秀なプロ棋士を育成していることで知られています。その中には、藤井聡太氏の連勝記録を止めた佐々木勇気八段や、高見泰地七段、勝又清和七段などが含まれており、石田氏の指導力の高さを物語っています。

 石田氏の指導方針は、将棋の基本や本筋をしっかりと教え込むことに重点を置いています。彼は、強くなる子供には他の子供にはない何か光るものがあると同時に、努力する姿勢が必要不可欠だと考えています。特に高校生くらいの時期に、いかに集中して努力できるかが将来のプロ棋士としての成功を左右するとしています。また、謙虚さと感謝の気持ちを持ち続けることの重要性も強調しています。

 石田氏自身の生い立ちは、決して恵まれたものではありませんでした。愛知県岡崎市の貧しい家庭に生まれ、父親が事故で右手の指を失うという不運に見舞われました。しかし、父親の「苦労は逃げると追っかけて来るんだ」という言葉を胸に刻み、困難に立ち向かう姿勢を学びました。この教えは、石田氏の人生における重要な指針となり、後に直面する様々な困難を乗り越える力となりました。

 将棋との出会いは中学1年生の時でした。親戚から教わった戦法に魅了され、将棋の世界にのめり込んでいきました。15歳で新進棋士奨励会に入会し、20歳でプロ棋士となりました。しかし、プロとしてのキャリアは平坦ではありませんでした。初めは順調に昇級していきましたが、その後長期のスランプに陥ります。この時期、石田氏は将棋の成績だけでなく、私生活でも多くの悩みを抱えていました。

 スランプを乗り越えるきっかけとなったのは、ある海岸での経験でした。溺れそうになった時に流れに逆らわずに身を任せることで助かるという話を聞き、自身の状況に重ね合わせました。じっと耐えてやるべきことをやっていれば、また勝ちの流れが戻ってくるはずだと気づいたのです。環境を変え、将棋に一心不乱に打ち込んだ結果、32歳でA級に昇級し、八段に昇段しました。

 しかし、生活が安定したことで闘争心が衰え、再び成績が下がっていきます。この経験から、石田氏は「盤上没我」(盤上に没頭し、我を忘れること)の重要性を学びました。現役時代は苦しい時期のほうが長かったと振り返りますが、これらの経験が後の指導者としての活動に生かされていると実感しています。

 46歳の時、偶然の巡り合わせで柏将棋センターを引き継ぐことになりました。これは石田氏が以前から考えていた「45歳限界説」(棋士は45歳を過ぎると若い頃のように活躍できない)に基づく、後進育成への転身の機会となりました。センターの経営は決して楽ではありませんでしたが、工夫を重ねることで徐々に成功を収めていきました。

 しかし、2007年にセンターが火災に見舞われるという大きな困難に直面します。さらに、その後も心筋梗塞や突発性難聴など、健康上の問題にも見舞われました。これらの試練に直面し、時には全てを投げ出したいと思うこともありましたが、多くの人々の支えと「将棋の普及のため」「子供たちのため」という使命感によって乗り越えることができました。

 石田氏は「幸運は不運の姿をしてやってくる」という信念を持っています。一見不運と思われる出来事も、諦めずに続けていけば、後から振り返ったときに自分の人生をよりよいものにしてくれた幸運だったと気づくことができると信じています。この信念が、数々の困難を乗り越え、今日まで将棋センターと子供将棋教室を続けてこられた原動力となっています。

 77歳となった今も、石田氏の将棋への情熱は衰えていません。自身の人生を「お釈迦様の手のひらに乗っかった孫悟空のよう」と表現し、人知を超えた不思議な力に導かれてきたと感じています。
 これからも将棋の普及に力を尽くすと共に、自身が体験し培ってきたすべてを後進たちに伝え、一人でも多くの有為な人材を育てていきたいと意欲を示しています。石田氏の人生は、困難を乗り越え、諦めずに続けることの大切さを教えてくれる、まさに「貫くもの」の体現といえるでしょう。

『致知』2024年9月号は現在講読途中ですので、随時追加していきます。



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