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無駄に教養が付くかも知れない不定期な雑学講座(寝たら無明の闇に落ちる)~観音とはいかなる存在か~その3~

観世音菩薩の「救い」の本当の意味

 観音様が庶民の信仰として、人気が高い理由は、
はっきり言いますと「現世利益」です。
つまりは、人々が
「どうか願いが叶いますように」と何にでも変身して、
救済してくれる観音様に「お願い」をするわけです。

 さて、今まで「観音様」の解説を、
「六道輪廻」と重ねて解説してまいりました。
で、「観音経」自体に書かれている「観世音菩薩」や、
般若心経の冒頭に出てきます「観自在菩薩」
これはどちらも、漢訳が違うだけでまったく同じ存在です。
というか、存在であって存在ではないわけなんですな。
 
 なんだか、禅問答のようではあるんですが、
禅自体が仏教ですから、こら、あたりまえです。
 あたしが言ってるのは、
観音様が変身しているわけは

そうですなぁ、
「鏡」になってくれてるという事なんじゃないのかと思うんです。
まぁ、あたしはいわゆる僧侶ではないので、
今から言う解釈なんてものは
まったく「外道」といわれても仕方ないと、
とりあえずおことわりしたうえで、申し上げましょう。

観世音菩薩は己の鏡である

  まず、七観音の話をしましたが、
この七観音は六道すべてを、
自身の姿を変えて救済するのだとされています。

天界まで救済するとされた「如意輪観音」などは
「如意輪」と言うくらいですから、
何でも思いのままという事になります。

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しかし、この観音様の姿は、
なんかこう、思案に暮れてようにも見えます。
そして、手には何でも思いが叶うという「宝珠」を持っています。
悩むことでもないのでしょうが、

「これ、どうやって使おうね?」

という感じにもとれるのですな。

 あたしゃ、これまでの六道各々の担当されている観音像と、
六道各々の状態を考えてみたわけなんです。

で、思った結論は、それぞれの観音像は、
六道それぞれの「己の姿」なのではないのかと言うことなんです。

たとえば餓鬼界の千手観音などは、
果てしない欲にまみれた己の姿でしょうし、
修羅界の十一面観音などは、
様々な表情にいちいち諍っている己の姿
そのものであるともとれるわけです。

今の自分の姿が観音の化身だから
自分を救えるのは自分のみだという
大乗のメッセージ

 つまり、観音様はこのように自在に姿を変え、
今のお前の心はこうだよ。
とメッセージを突きつけているわけです。
前にも言いましたが、六道は死後の世界ではなく、
己の心のありようである
。と言いました。

そうなれば、それぞれの観音像の姿は
おのれのその時の姿であるぞ。
という事にもなります。

それでハッと気付き、己のその時の心を改めたならば、
それはその心の本当の救済になるのではないかと思うわけです。
観音さんが救ってくれるんじゃなく、
観音さんの姿に己の心を映して、
己で道を修正することで救われるという事ではないのか
とも思うのですなぁ。

無明だと・・なかなかわかりませんね。
でも、いつかは「目覚めた人」になるのでしょう。
それは、人から言われるのでなく
自ら目覚めるべきものです。

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 であるなら、能力以上に技術を持ち、
今や宇宙にも自在に行ける「天界」の状況にある
現代人の心
は「如意輪観音」の
思案にくれる姿なのかもしれませんね~。

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