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密教という、巨大な「真意」を追求してみる@苦行するだけで、それが描けるのか、実践的に考えてみるのだ。    講座「仏教と日本の関わり」はいかに?その3

東アジアのトレンドを獲得した古代日本

古代日本は、仏教推進派の蘇我氏が、
保守派の物部氏を抑えて権力を握ったため、
東アジアのトレンドであった仏教を
国家形成のメジャーに据えることに成功したわけです。

以来、周辺諸国と同様に日本は仏教理念を基盤とし、
先進政治技術であった
「律令国家」という国作りを進めていくわけです。

 大化の改新を経て、日本は律令国家への舵を切り、
それにつれて仏教がどんどん浸透していきます。
豪族は競って大伽藍の寺院を建て始めるわけです。

8世紀には稀代の仏都「平城京」が生まれます。
その隆盛は、はるか唐から戒律師の高僧である鑑真和上まで招聘し、
正式な受戒をこの国で可能にするに至ります。

さらに、聖武天皇は全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じ、
都にはその総本山としての東大寺を建立、
民衆の信仰篤かった行基の協力を得て
巨大な毘盧遮那仏建立を果たし、その開眼会には、
はるか天竺から僧を招聘できるまでに至っているわけです。

つまり、シルクロードの最終駅といわれるまでの
文化交流を果たしたという事で、
まさに古代日本は「外交政策」にもその成果を
遺憾なく発揮したわけでございます。

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仏教勢力の世俗化

 仏教の寺院は国家の庇護を受けて、
その権力を拡大していきます。
このあたりは中世ヨーロッパの
キリスト教会勢力の流れにも似ています。
日本において仏教のいわゆる「世俗化」
進んだと言ってもいいのかも知れません。

いくらおおもとが高邁であったとしても、
それが既得権というか権威化というか
「世俗化」というものに進んでしまったら、
とたんに腐敗してしまうのが世の常です。

ブッダが本来言った「権威や権力には離れよ」
というものはどこへやらてな状況になり、
寺院や僧そのものが「権力」に変化していきます。

ただ、それがいいか悪いかは別として、
言ってみれば、それが人としての性であり、
「そういうものなのだ」と、まずは達観することが仏教では、
「諦める」ということなのでございますがね。

「四諦」とは、こういった「苦」を一番に持ってきて
これらがどうしても避けられない「苦」であり、
これらの「集」まりというのがこの世なのだということを、
まずは認識しなさいという意味であるといいます。

奈良仏教からの「宗教改革」

 そんな意味もあったのか、
わが国古代の仏教界にも「宗教改革」の動きが現れたんですな。
つまり、仏教本来の「宗教性」が求められるようになったのと、
政治から寺院勢力を遠ざけたいという意図が生まれます

それを実行したのが、平安京に都を移した桓武天皇でしょう。
桓武天皇は仏教による
鎮護国家じたいを否定していたわけではありませんでした。
何に対して対抗しようとしたのかというと、
権威から権力へと変化していった
平城京の寺院勢力に対してだったわけです。

そこで彼が重用したのが、
直属の仏師に取り立てられていた、
最澄その人だったのでございます。

800px-最澄像_一乗寺蔵_平安時代

 最澄は、出自は決して高貴な方ではありません。
近江国の豪農の出でございました。
ただ、非常に聡明で、早くから陰陽などの学問を修め、
12才で国分寺に入門、僧としてのエリートコースに乗るわけです。

当時は貴族の出でない限り
役人としての出世は望むべくもなく、
唯一「実力主義」だったのが
僧侶としての道
だったのです。
つまり庶民の子として生まれた子は、
僧侶になるのが出世の唯一の道であったというわけでした。

 秀才最澄は、一族の期待通り15才で得度、
奈良に入り、厳しい試験をパスして東大寺の僧としての資格を得ます。
この資格は年間10人に満たない難関であり、
秀才中の秀才であるという事でございます。

このまま進めば、国家公認の高僧として
栄達は思いのままでした。
ところが最澄は、これをあっさり捨てて、
なんと故郷に帰って比叡山に籠もってしまうのです。

せっかく手にした国家公認の「僧侶」の資格を捨てて、
いわば出奔し、私度僧が行うような
山岳修行に入ってしまうのですから、
これは現在の公務員で言えば
「職務専念義務違反」や「命令違反」および
「信用失墜行為」にあたり、
法的な処罰も当然あり得る事態なんでございます。

最澄の改革の意図とはなにか

まぁ、そこまでやらかした人ですから、
当然当時の仏教に対する強烈な思いがあったと言うわけで、
大きく考えられるのは二つあったと言われております。

ひとつには、最澄が当時の仏教界のあり方に
絶望したということでしょう。
高校の日本史でも出てきたとは思いますが、
当時の奈良仏教の世俗化でございました。
目先の栄華を求め、政治にまで口を出すその体質は、
最澄が思い描いていた仏教の姿とは
大きく違っていたということです。

もう一つは、かつて鑑真が唐からもたらした
天台仏典の数々が、東大寺の庫裡の奥底に死蔵され、
だれも顧みることがなかったのを、彼がそれを見いだし、
その内容に感銘を受けた事にあります。

 これらは隋の時代の僧、智顗を開祖とした教学で、
仏陀が説いた教典は5つの段階を経て完成の域に達し、
それが法華経であるとした五時八教という解釈
そして、止観(瞑想)によって仏となることを説いたものですが、
最澄は特にこの「止観」の修行こそが何よりも大事であると気づき、
この止観の修行のため、比叡山の奥深くこもる決意を固めたのです。

この修行が12年続き、最澄は止観しつつ
天台仏教の研究に没頭したのでございました。
そんな最澄のもとに、世俗化する奈良仏教を嫌った修行僧が
どんどん集まってくるようになります。
そのため、延暦7年、比叡山延暦寺を開山し、
天台仏教の道場としました。

 これに着目したのが桓武天皇でした。
天皇は、肥大する仏教勢力を抑制するため、
その温床となっていた平城京を捨て、新たに遷都を考えていました。
曲折のあとに選んだ山城の地に平安京を造営するにあたって、
その鬼門にあたる比叡山に拠点を置く最澄の天台仏教の道場は、
おそらく自分の障害になるであろう
奈良の仏教勢力に対抗する
新たな仏教としての拠り所に思えたのです。

唐にわたり、日本仏教の基礎を学び取る

 桓武天皇は比叡山に日参し、最澄を重用します。
最澄は、自らの教学のバージョンアップを図るため、
唐への短期留学を希望します。
遣唐使の「還学生」という立場で、最澄が参加した
延暦23年派遣の遣唐使には、
最澄と双璧をなす空海もそのメンバーにおりましたが、

その話は後日として、
唐に上陸した最澄は直ちに天台山に向かい、
天台仏教のあらゆるものを学び取り、
その経典をことごとく写経させるわけでございます。

考えれば「還学生」という存在は過酷で、
逗留わずか2年間のうちに「成果」を持ってこい
という使命だったわけでございます。

ですから、その習得のスケジュールというか
オプションはものすごいものであったと推察されます。
このあたりが学僧としての最澄の天才的な面と言えるのです。
当然ながら当時の最新鋭「密教」の分野まで学び、
その概要をもれなく身につけ
最澄は帰国の途についたのです。

つまり、大乗仏教における教学の基礎
すべて身につけて来たと言っていいわけです。

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