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社会人になって、20年の活動を振り返えってみよう。

振り返りってとても腰が重くて、まとめようとすれば何が言いたいのかわからなくなるので、書き上がらない。思いつきでバーっと書いた方が案外スッキリするものだ。しかし、こういうことに限って、多感な夜中の方が捗るというのもどうかと思うが、今日はノリが来たので描くことに決めた。

2000年、音楽の道からITの道へと進路を変更し、歩み始めた私は、2つの大きな夢があった。

  • 攻殻機動隊(アニメ)のような世界観で仕事をすること

  • 障害をもった身体機能を補う技術の開発に携わる

これには、未発明の技術やサイバーセキュリティ、医学だけでなく、価値観に依存する部分の多い倫理学や想像し難い天文学的な研究費用の問題があった。

背景

ここに辿り着くことになった始まりは、私が物心ついた頃から多感な学生時代まで思い悩まされた右手の障害「右上肢機能障害」にある。

3歳の時、不幸にも保育所で裁判沙汰になるほどの事故によって、右手の機能の50%以上が失われた。手のひらは開かず、指先が肩に届くことはなくなった。小学校1年生の時に3度目の回復手術と片道1時間の通院によるリハビリを7年間毎日続けた。母親は、当時のことを記憶の奥底に締まって思い出せない当の本人よりも、精神的にも体力的にもさぞ大変だったことであろう。

幼い頃から家族兄弟や他の人が当たり前にできることが、できなかった。鉄棒ができない、跳び箱ができない、ボールがろくに投げられない。低学年のうちはそれが原因でいじめられたこともあったようだ。青年になるにつれ、音楽が好きになり、ギターを始めた。エレキギターは主に左手でコードやフレーズを抑えて、右手でピックを使って弾くため、一部難はあったものの機能の大部分を問題なく補うことができた。器用だった私は、人より上手くできてすぐに頭角を現すことができた。しかし、一番やりたかったピアノは弾けなかった。それは夢でもなく、もはや「もし〜でなければ」の空想の世界での話だった。青年の頃は、「もし〜でなければ」とは随分考え思い悩んだものである。

転機となるコンピュータとの出会い

その音楽からITへ活動の中心を転換することになった話は「(著書)派遣で入った僕が、34歳で巨大グループ企業の役員になった小さな成功法則」に大枠記載させて頂いたので割愛する。

優れた日本サブカルの世界観とのリンク

20代前は、まだアメリカにおり、ITビジネスの傍ら、昼夜を問わずアニメばかり見ていた。その時に攻殻機動隊をはじめ、様々なサイバーパンクな物語を数多く鑑賞した。来る日も来る日も、時間のある限り、洗脳されたかのようにSFに引き込まれていた。学校の卒業が近づく頃は、まだ昼夜が逆転するような毎日を過ごしていた。焦りはしないものの将来に向けて何かビジョンがあったわけでもなく、目の前にあるIT関連の仕事に夢中になっていた毎日であった。時々、気晴らしも兼ねて、素晴らしく天気の良いカリフォルニアのビーチを訪れたり、夕陽を眺めにホープランチへと出掛けていたが、ある日サンタバーバラの山の頂にあるカチューマレイクの森林でフライフィッシングしている時に、ふと、将来何をやっていこうかと思った時に、SFと義肢、サイバーパンクが繋がった世界観が思い浮かんだのだ。「もし、失われた機能がテクノロジーによって再建されたならば〜。」「たとえば、見えなくなった親の目が、何らかの方法によって子どもの成長が再び見えるようになるならば〜。」機能障害による不遇な体験を通じて、その回復に寄与できるということは、どれほどのものであろうか。

身体障害者数は日本全国でおよそ436万人と言われている。
世界では人口の15%を占める10億人ほど存在する。

https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/18/backdata/01-01-01-02.html
https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/5820/

一つの事例として、色盲を回復するサングラスを提供するYoutube動画が有名だ。回復を受けられるもの、回復の機会を提供できるもの双方にとって、感動と胸が熱くなる想いが得られる。テクノロジーによって、このようなことが可能になる。このことに気がついた、この日のことは今でも忘れはしない。何の気なしにITをやっていた私の奥底で、何かカチッとハマるものがあったのだ。

攻殻機動隊やその他のサブカルの中で表現されている義体、義眼、魂の存在、人体改造に関する倫理、人ならざる力の享受、果てしなくつながる世界、ハック、強きもの・弱きもの、それぞれが何か一つテクノロジーという文脈で初めて繋がった瞬間である。ITを進めていく先というのは、このような未来に「いずれ」辿り着くであろうという漠然な感覚だけであった。

ほどなくして、ニューヨークの911事件があり、アメリカ永住は見えなくなった、むしろその瞬間、帰国に向けた時計の針が動きはじめたのだ。そういの中(良質なストレスだと考える)、2023年に帰国した時には、その世界観を実現するにはバイオベンチャーを起こす必要がある!と強く思ったのだ。

帰国後のキャリアと紆余曲折

バイオベンチャーを始めるにあたっても必要な業界知識が皆無であった私は、まずは製薬会社を渡り歩いて、その基礎知見を集めようとその活動に都合の良い紹介派遣という選択を取った。その後の話は、「(著書)派遣で入った僕が、34歳で巨大グループ企業の役員になった小さな成功法則」に記載させて頂いたので割愛するが、思いもよらないところで、自分のキャリアがまた大きく変わっていったのである。

ランチェスター戦略としての、サイバーセキュリティ

いよいよ企業人を卒業し、独り立ちすると決めた37歳の時には、既にデータを中心とした新薬開発やロボットの先駆けが登場し始めていた。後発での参入となると、困難を極めると考えた私は、そのほかで最も人脈がありニッチであると考えたセキュリティを一つの柱にすることを選択した。私が想像してきた世界では、セキュリティは倫理やビジネスの問題であった。もちろん技術的な要素の方が大きいし、社会はそこに焦点を当てている。しかし、その上位にあるものは、違って見えていたわけで、ただそれだけの理由でランチェスター戦略的に選択した。その結果、なんとか会社も6周年を無事迎えることができている。

現実

夢と希望を抱いていつの間にか20年が経過していた。幸いにもITとセキュリティに携わった仕事をさせて頂いてるが、まだ夢に見たバイオベンチャーには程遠い状況だ。しかし、現実を悲観しているわけでなく、ある方面から見ると社会的な立ち位置をうまく作ることができた20年だと評価もできる。一方で、まだ目指した世界観には程遠い状況だ。

世界にはその世界観を驚異的なスピードと資金力で進めている人物がいる。
それが、イーロンマスク氏だ。
彼の手がけるニューラリンクの神経麻痺や脊髄の障害による信号遮断によって起こる機能障害をバイパスして筋肉に直接信号を送る脳埋め込みデバイスをはじめとする取り組みなど、かなり前衛的なものが大対的かつ画期的な取り組みとして注目を集めている。そのほかにも欠損した身体機能を技なうロボティクスなども。南カリフォルニア大学で行われていた脳の電気信号で、見たものを画像として再現できるのも同様に素晴らしい体験への挑戦だと感じている。

徒然なるままに

時折、私は今何をしているのだろうかと思うことがあるが、20年という過ぎ去った時間を振り返り、またこの5年の必然・偶然を含めて生まれた身の回りの産物を再度評価して、今後の活動方針を補正するだけだ。夢は持ってていいと思う。手広くやってて何が悪い?人生は一度きりだ。どこで成功するかわからない。後悔なんてするもんじゃない。だったら、とにかく進み続けるだけである。

最後に一言伝えたい。
夢中になって取り組めることがあれば、そして、多少の社会的成功を体感することができるならば、事実取り返せないものがあったとしても、自らの劣等感やハンデを灰のように風に流し消えさることがある。いつの間にかそのような他者との比較はしなくなり、気にならなくなるのだ。私にとっては、このことが、この20年間で最も大きな収穫だった。とてつもなく幸福なことである。

あとがき

  • 倫理は慶応で何年も基礎を学ぶことができた。除籍になったのは、勿体無かったが、今はドイツの大学を3度目の正直で取り組んでいる。学術的根拠は全てと言わないが、さまざまな事柄を社会的に証明するという文脈では重要な要素である。

  • サイバーの世界でもひょんなことから、マネジメントに近い領域を専門に仕事をさせて頂いている。幅が広く常に人材不足の領域の中で、ウィザード級の技術者ではない道だが、それはそれで良いと思っている。

  • 20年に後悔はなく、ただもっと時間が欲しいと思っただけだ。

  • 周囲には何でメタバースとか関係あるの?と疑問に思われることが多いが、この文脈、そこで生まれる世界観が全ての理由である。すべての選択と活動には意味があるのだ。

  • これからの20年がおそらく最後のキャリア形成になるであろう。これまでを振り返って、しっかり熱意の持てる取り組みを仲間とやっていきたいとそう思うのである。つらつら・・・







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