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倉田令二朗先生の思い出

 私が工学部の学生だった頃、不思議な数学の先生がいました。それが倉田令二朗先生でした。(注:画像は本人とは関係ありません)

 倉田先生の講義は出席を取らないのと、単位が取りやすい(?)ことから、出席する人が少なく、私を含めていつも3-4人の出席者でした。当時は110分授業でしたが、倉田先生は必ず遅刻します。そして、10-20分早く授業を終わります。時にはいつまで待っても来ない時もありました。当時は確か、20分以上先生が来なかったら休講になるという暗黙のルールがありました。私は、毎回授業に出ていたので、倉田先生より出席率が良かったと思います。

 倉田先生は過去の脳出血のため、体が不自由で、杖を使って徒歩で講義にやってきます。車椅子は使っていませんでした。倉田先生が、授業で最初にすることはタバコでした。ゆっくりと教壇に移動し、「体がこんなだから、座らせてもらうよ」と私達に断わってから、やおら胸のポケットからいつものチェリー(タバコの銘柄)を取り出しました。つぎに箱から一本取りだし、百円ライターで火をつけて、美味しそうにゆっくりと紫煙を燻らせます。先生の頭上には、”室内禁煙”と大きく書かれた張紙がありました。

 たばこ一本が終わると、授業の開始です。ラグビー選手の五郎丸さんのように、これが倉田先生のルーティンでした。倉田先生は、体が不自由なこともあって、板書を全くしません。ただし、教科書替りのガリ版刷りのプリントが事前に配られているので、授業はプリントを中心にして進みました。それから、試験は漏れなくこの中から出題されました。出席は取らないし、試験の出題傾向が分かっているので、誰も出席しないのです。今なら考えられない授業ですが、その当時は許容されていました。私も大学の講義とはそんなものなんだと、半ば諦めていました。当時の大学授業でまともは授業は、数えるほどしかありませんでした(あくまで個人の感想です)。

 では、なぜ私が出席していたかというと、倉田先生の雑談が面白かったからです。とくに”岡先生”の話が面白かったからです。倉田先生は目つきの鋭い強面の先生でしたが、岡先生の話になると、いつもニコニコ楽しそうに話をされていました。岡先生とは、多変数複素関数論で有名な数学者の”岡 潔 (おか きよし)”です。もちろん、雑談を聞いていた時は有名な数学者の話とは思いませんでした。倉田先生が雑談の中で、岡先生が中学生を襲った事件の話にも触れましたが、あれが有名な『広島事件』だったと、つい最近知りました。2年前くらいに、岡先生の生涯がドラマになったので、知っている人がいるかもしれません。

 倉田先生は10年前に亡くなっていますが、先生がベトナム反戦運動などの学生運動のリーダー的存在だったことや、先生の専門が多変数複素関数論だったことを、ググった情報から初めて知りました。先生との付き合いは、40年前のたった1コマの授業でしたが、倉田先生は強く印象の残った忘れられない先生です。


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