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ユトリはあった方が良い

多少なりとも教育に関係する職についている者として、”ゆとり教育”について語ろうと思います。といっても、底辺教員の戯言ざれごとですから、その程度と思って読んで下さい。そもそも、私自身が教育制度を語れるような立派な人間ではありません。

『ゆとり教育』は失敗として語られることが多く、ゆとり教育を受けた人たちは『ゆとり世代』などと呼ばれて、しばしば揶揄の対象になったりもします。しかし、本当にゆとり教育は失敗したのでしょうか?。そもそも、教育の成果はすぐに現れませんし、どんなに素晴らしい教育を受けても大成しない人も大勢います。ひょっとすると二十年後くらいに、ノーベル賞をもらうような”ゆとり世代”が現れるかもしれません。

たまたまこの時代に生まれて、『ゆとり世代』とレッテル張りされた方々には同情します。どの世代にも優秀な人はいるし、そうでない人もいます。十把一絡げで世代をくくるのはナンセンスだと思うのですが・・・。

「ゆとりは、あった方が良い」ということについては、多くの人が同意すると思います。お金のゆとり、心のゆとり、時間のゆとりなど、どの”ゆとり”を取っても、悪い意味のものはありません。つまり、人間にとってゆとりは必要なものなのです。

ゆとり教育は、それまでの”詰め込み教育”の反省から出て来た考え方です。知識を詰め込むだけでは頭でっかちになって、それこそ”ゆとり”がなくなると危機感を覚えたのでしょう。しかし、やり方がまずかったのだろうと邪推しています。日本の教育は、個ではなく、集団を対象に考えてしまいます。ゆとり教育を推進するために、勉強したい人にまでゆとりを強要するのは話が違います。

これは人手がかかるし、お金もかかるかもしれませんが、本当に必要なのは個人にあった”オーダーメード”の教育でしょう。人にはそれぞれ向き不向きがあります。勉強が苦手な人にいくら勉強を教えても成果は上がりませんし、スポーツの苦手な人を鍛えても運動能力は向上しません。また、音楽のセンスや芸術のセンスは、余程の天才を除けば、専門的な教育なしには身に付きません。

それから、学力(学歴)が、スポーツなどの運動能力や、芸術センスより優れていると思っている時代錯誤な人が未だにいます。昔は、良い大学に入ればいい会社に就職できたし、学歴信仰にもそれなりの理由がありました。しかし、変化が速い現代では、”学歴がすべて”という考え方はオワコンです。

学歴マウントが正しいと思っている、学歴以外に誇れるものがない人には、本当に同情します。

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