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東京40年を見れば、この先の未来も見える その2

今日は前回の続きから
はじめます。

前回はこちら↓

裏原ブランドの繁栄とマウジーの登場

裏原ブランドは、このあと全国の都市に
フランチャイズストア化されていきました。

原宿のストリートを意識したストリートが
全国各地に作られた時代でした。

またたく間に90年中盤には
大トレンドになりました。

原宿の路地裏からスタートした裏原ブランドが
ついに、メインストリートを作っていったのです。

一方その頃の渋谷は、109が

隆盛を極めていました。

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※出典 https://www.timeout.jp/tokyo/ja

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※出典 @namaedousiyow on Instagram: “榎本雪恵(エゴイストVAT柏店スタッフ)/ 中根麗子(エゴイスト渋谷109店スタッフ)/ 森本容子(エゴイスト渋谷109店スタッフ)AD1999”

90年代にアムラーファッションの立役者だった
「EGOIST」に取って代わり。

スキニーデニムにヒール、肩にはN3Bを
羽織ったギャルが一世を風靡していたのです。

今現在、ドメスティックブランドで最大の
インスタフォロアー数を誇る「moussy(マウジー)」
の登場でした。

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※出典  https://sumally.com/p/645213

渋谷にはミリタリーファッションをミックスした
ギャルで溢れかえりました。

ピタピタのデニムで華奢なボディラインを
強調し、大きなファーを付けたミリタリーコート。

初めて渋谷に遊びに来た外国人には、かなり
異様な光景だったと思います。

それまで90年代の影響をひきずり、モテの
ためにファッションを選んでいたギャルたち。

そのカウンターとして「moussy」は自分の
スタイルを貫くことを猛烈にプッシュしました。

渋カジ時代から続いていた、「モテ目的」に
大きなカウンターがやってきた
のです。

キーワードは他人の目からの
「不自由」の解消。

これは、裏原ファッションと時期を
同じくしていました。

男も女も「モテ」第一から、
自分のスタイルの追求になった
のは
決して偶然ではなかったはずです。

病弱で不健康がイケてる



その後、2000年代に入るとメンズモード
ファッションには世界的なカウンターがやってきました

エディ・スリマンが手掛けた
「ディオール・オム」の登場です。

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※出典 https://note.com/snowleopard/n/n74cef2ff9fb7

それまでのストリートのメンズの
シルエットは、ワイド&ルーズ。

それが、みなこぞってガリガリの
スキニースタイルに大チェンジしました。

80年代のパンクブームにも90年代の
DCブームにもスキニーパンツはありました。

しかし、何かが進化して寄り戻しがくる。
これが「らせん的発展」
です。

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エディ・スリマンが打ち出したスキニースタイルは、
過去のデニムパンツよりも、さらにピタッとしたシルエット。

病弱で不健康そうでナイーブなロックスタイルに
全世界のキッズたちは熱狂しました。

結果、2002年以降の多くの東京ブランドは、
スキニーシルエットが定番となりました

スキニーデニムの大ブームの影には、日本製
デニムの技術力がありました。

ストレッチ機能がありながら、ヴィンテージの
ような表情が出る日本デニム。

世界のラグジュアリーブランドが、日本製デニム
のクオリティに惚れ込み、日本製が世界に通用
することを証明した時代でもありました。

タイトなスキニーシルエットは、ストレッチ機能に
より動きやすさが加わり進化しました。

その後、日本製デニムを看板商品とした
ドメスティックブランド(※後ドメブラ)が乱立しました。

同時に次第にルーズ&ワイドシルエットの
裏原ブランドは息を潜めていきました。

皮肉なことに、日本での裏原ブームの終焉は、
日本製デニムのテクノロジーが後押しする結果になりました。

駅ビルセレクトショップの黄金時代

ここでドメブラをさっそく買い付けて、大成功したのが
「BEAMS」「UNITED ARROWS(UA)」でした。

そしてこのタイミングで、ファッションの
主戦場は、ルミネを始めとする駅ビルに
移すことになりました。

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駅ビルは雨の日でも濡れることなく店舗に行け、
会社帰りのわずかな時間にも立ち寄れました。

これにより路面店からは次第にお客さんの
足は遠のいていきました。

土日中心の路面店の集客は、平日から
集客できる駅ビルに流れていきました。

日本最大の利用者数の新宿駅に直結した
「UA」は絶好の立地を最大限に活用しました。

この頃は、ディオール・オムのシルエットに
影響を受けたメンズブランドがひしめきました。

しかし、そんなブランドの立場は
厳しいものでした。

ZOZO naviの影響で、Googleではブランドの
指名検索を全て上位表示をZOZOに奪われ。

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(※ZOZO naviは現在終了)

出典 ※http://ksgru.com/20120619/zozo_zozonavi_kensaku/

それまでブランド名にPPC広告をかけていた
地方卸先店舗が軒並み売上を落とし始めました。

地方店舗が広告をかけて集客していたのを、後発の
ZOZOがみるみるうちに侵食していきました。

そして、こんな状況でも大きく買付することが
できていたのは百貨店やセレクトショップ。

立地が違えば、インバウンドも含めた
集客力が違います。

ドメブラの売上は、大手が大半を締め、
地方卸先はどんどん弱くなっていきました。

そうやって、卸先の受注金額が一手に集中し始めると、
徐々にパワーバランスが崩れていきます。

買い手が王様になると、買い手は他の店舗と違いを
出すためにエクスクルーシブな企画を欲しくなります。

ブランドは自分たちのコレクションラインよりも
卸先の別注を仕込むことに忙しくなりました。

キツイ言い方をすれば、ブランドは大手セレクトショップと
百貨店の言いなっていきました。

その間、ネットではご存知の通り、ZOZO TOWNが
毎年30億から100億ずつ、売上を拡大していきました。

駅ビルとZOZOのおかげにより、
立地の「不便」は物理的に解消されました。

そして、ドメブラの存在が致命的になる
事件が起きました。

それまで、大きな取引先のひとつだったZOZO
が買取仕入れを急遽終了したのです。

小さなブランドは委託販売で在庫を持って
戦うか、ZOZO市場から撤退するか。

どちらかを選ばなければなりませんでした。

2015、16年ころには、ZOZOでの取り扱い商品は
Nano Universe等の価格戦略で一気に低単価路線になりました。

絶大な集客力に対し、低単価商品は相性が抜群で、
その3年後の2017年には売上1000億を超えました。

しかし、この流れこそがドメブラが活動してきた中で
もっとも厳しい時代でした。

裏原時代に数え切れないほどあった
ブランドは、この時期に数多は淘汰されました。


ということで、いよいよD2Cブランドが登場する

わけなのですが、今回も長くなりました。


この続きは次回で書いていきます。


今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。

バイチャ。

ホンマヒデ


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#東京40年を見れば未来が見える

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